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宇野千代 何した人 小説家・実業家・デザイナー・4回の結婚と離婚

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目次

宇野千代のプロフィール

宇野千代とは

NHKの2026年後期朝ドラ「ブラッサム」に登場するヒロイン・葉野珠(はのたま)(石橋静河)のモデルとなる、宇野千代(うのちよ)(1897~1996年)さんとは、日本の小説家・随筆家です。他にも編集者・実業家・着物デザイナーとしても知られています。

1921(大正10)年に「脂粉の顔」が「時事新報」の懸賞短編小説の一等に選ばれて小説家としてデビュー。それ以来、「色ざんげ(1935年)」・「おはん(1957年)」などの代表作を発表。

編集者・実業家としては1936(昭和11)年にスタイル社を創業し、日本初のファッション専門誌「スタイル」を創刊。また1949(昭和24)年には「宇野千代きもの研究所」を設立。1974(昭和49)年、勲三等瑞宝章を受賞。

宇野千代は何をした人なのか?

上述したように職業人としての宇野千代さんには、「著述家」・「編集者及び実業家」・「着物デザイナー」としての3つの顔がありました。

また宇野千代さんはプライベートでは4人の男性(藤村亮一・藤村忠・尾崎士郎・北原武夫)と結婚・離婚を繰り返し、それら以外にも洋画家の東郷青児と同棲したことなどで有名です。

自伝的エッセイ「生きて行く私」において、宇野千代さんは「泥棒と人殺しのほかは何でもした」と冗談半分に豪語されているほど波瀾万丈で多彩な人生を送られました。

小説家としての宇野千代

1921(大正10)年「脂粉の顔」で小説家デビュー

1921(大正10)年、宇野千代さんが24才のときに「時事新報」が主催する短編の懸賞小説に応募する形で「脂粉の顔」を発表。

宇野千代さんは、岩国高等女学校(現在の山口県立岩国高等学校)に在籍する女学生の頃から「女子文壇」に小説をしていたものの、「脂粉の顔」が「時事新報」の懸賞小説として一等に選ばれたとき、小説家として「書ける」という自信を持つことができたそうです。

一篇が十枚足らずの短篇であったのに、思いもかけない大金が送られて来たとき、その大金を見て、私は何と思ったか。小説とは、何と言う金の儲かるものかと考えたとは、全く、呆れ返ることであった。

宇野 千代. 生きて行く私 (角川文庫) (Function). Kindle Edition. No. 1120

懸賞小説の一等の賞金は200円で、2025(令和7)年の価値に直すと200~300万円もの大金に相当する金額でした。

宇野千代さんの代表作 「おはん」「薄墨の桜」「青山二郎の話」「生きて行く私」など

24才のときに発表した「脂粉の顔」以来、小説・随筆といった文筆の仕事は、1996(平成8)年に98才で亡くなるまで、宇野千代さんにとって「ライフワーク」となります。

1935(昭和10)年の「色ざんげ」、1957(昭和32)年の「おはん」(中央公論社)、1975(昭和50)年の「薄墨の桜」(新潮社)、1980(昭和55)年の「青山二郎の話」(中央公論社)、1983(昭和58)年の「生きて行く私」(毎日新聞社)などが、宇野千代さんの代表作です。

編集者・実業家としての宇野千代

1936(昭和11)年に日本初のファッション専門誌「スタイル」を創設

1936(昭和11)年、宇野千代さんは「スタイル社」を創設。日本初のファッション専門雑誌となる「スタイル」誌を立ち上げます。

「いかにおしゃれな生活をするか」を追求する「スタイル」誌は、当時、都新聞(現在の東京新聞)の記者であった北原武夫の編集協力により、売上と利益が飛躍的に伸びたと言われています。

戦時中には言論統制もあり誌名を「スタイル」から「文体」と変え、1944(昭和19)年には休刊を余儀なくされるも、終戦の翌年である1946(昭和21)年には産経新聞社社長・前田久吉から援助の申し出を受け「スタイル」として復刊。

「おしゃれな装い」が抑制されていた戦時中の反動を受け、「スタイル」は再び驚異的な売れ行きを見せることになりました。

デザイン関係の事業も展開

宇野千代さんの年表(年譜)を見ると、「スタイル社」以外にもいくつかの会社・事業を行なっていたことが分かります。

1949(昭和24)年には「宇野千代きもの研究所」を設立。1950(昭和25)年、銀座のみゆき通りにあった「スタイル社」の1階にあった社屋に「スタイルの店」を開店。さらに1967(昭和42)年には「株式会社宇野千代」を設立しました。

着物デザイナーとしての宇野千代

着物デザイナーとしてのスタートは「きもの読本」から

戦後に再び「スタイル」誌が爆発的な売上を誇る中、宇野千代さんは1951(昭和26)年に「スタイル」の臨時増刊号として、「きもの読本」を刊行。

「きもの読本」以前の「スタイル」にも着物を紹介するページはあったものの、臨時増刊号では着物の紹介を拡大し、有名女優や女流文学者に絢爛豪華な着物を着せたり、コーディネートの指南をするなど、従来の型にとらわれない着こなしを提案することになります。

大振袖「千代桜」は百寿のお祝いで着る予定だった

1959(昭和34)年に「スタイル社」が資金難に陥り倒産。それに伴い「きもの読本」も22号をもって廃刊となりますが、着物デザインの仕事そのものは、小説・随筆の文筆業とともに宇野千代さんにとってのライフワークに。

宇野千代さんの生まれ故郷である岩国市観光振興課のWebサイトでは、宇野千代さんが最後にデザインした大振袖の「千代桜」の写真が掲載されています。

宇野千代さんは98才で亡くなることになりますが、「千代桜」は百寿(100才のお祝い)のときの記念に着る予定でした。

4回の結婚と離婚などを経験した宇野千代

藤村亮一(1回目の結婚と離婚)

宇野千代さんの1回目の結婚と離婚は1911(明治44)年。14才のときに父親・宇野俊次の命令で、従兄の藤村亮一に嫁ぐことになります。

ある日、藤村亮一の母で宇野千代さんの伯母にあたる女性から「家に遊びにおいで」と言われ、言われるままに遊びに行くことに。そして夜遅くなったところで亮一に送られて家に帰ってくると、「夜に男と歩いていてけしからん」という理由だけで宇野千代さんは従兄の藤村亮一と結婚することになったのです。

まだ10代前半だった宇野千代さんにとって、わけが分からない状況での結婚でした。嫁いですぐに実家が恋しくなり、結婚生活はわずか10日ほどで破綻することに。

藤村忠(2回目の結婚と離婚)

2回目の結婚は1919(大正8)年。お相手は1回目の結婚と離婚を経験した藤村亮一の弟・藤村忠。

宇野千代さんと藤村忠が親密になったきっかけは、1916(大正5)年ごろに亮一との1回目の結婚を斡旋した宇野千代さんの伯母が、京都の第三高等学校(現在の京都大学総合人間学部)で学生をしていた藤村忠と一緒に暮らしてやってほしいと声をかけられたことでした。

宇野千代さんは藤村忠さんとともに2年ほど京都に住んだのち、1917(大正6)年には忠が東京帝国大学(現在の東京大学)に進学したことに伴い上京。

さらに忠が帝大を卒業し、北海道拓殖銀行に就職が決まると宇野千代さんは忠とともに札幌へ移住。しかし1922(大正11)年、自身の小説が雑誌に掲載されるか否かを問い合わせるために札幌から上京したとき、後述する尾崎士郎と出逢います。

1923(大正12)年、東京府荏原郡馬込村(現在の東京都大田区南馬込)で尾崎士郎と同棲を開始したことで、宇野千代さんは藤村忠と2回目の離婚を経験することになりました。

尾崎士郎(3回目の結婚と離婚)

3回目の結婚は1926(昭和2)年。お相手は藤村忠との婚姻中に出会った尾崎士郎でした。

1922(大正11)年、宇野千代さんは中央公論社(現在の中央公論新社)で名編集者と呼ばれた滝田樗陰(たきたちょいん)に「墓を発(あば)く」の作品を札幌から送ったところ、何の音沙汰もなかったため上京。

その上京中に宇野千代さんは尾崎士郎と出逢います。当時、尾崎士郎が投宿していた本郷の菊富士ホテルに同宿。まもなく馬込村で同棲を開始し、藤村忠がいる札幌に戻ることは二度とありませんでした。

私と尾崎士郎とが、諸々方々へ転々と引っ越して行くのを見て、いまの東京新聞、その頃の都新聞の学芸部長であった上泉秀信と言う人が、「そんなに方々へ転々としていては、金がかかる。僕がいま住んでいる馬込村で宜かったら、世話するから来たらどうか」と言ってくれた。その人の世話で、私たちは生まれて始めて、一面の大根畑であったその頃の馬込村へ住みつくことになったのであった。

宇野 千代. 生きて行く私 (角川文庫) (Function). Kindle Edition. No.1251

馬込村はいつしか「文士村」と呼ばれるようになり、宇野千代の名前をしたって文筆家が集まる、一種の「サロン」を形成していたと言われています。

なお宇野千代さんが尾崎士郎と離婚した年は1930(昭和5)年。同じ年に宇野千代さんは、洋画家の東郷青児と同棲を始めていました。

北原武夫(4回目の結婚と離婚)

4回目の結婚は1939(昭和14)年。お相手は都新聞の記者・北原武夫でした。宇野千代さんと北原武夫が急接近した理由は、上述した「スタイル」誌の編集で北原武夫が協力をしたことです。

2人が結婚した当時、宇野千代さんは42才で、北原武夫は32才。「妻の方が10才も年上だった」ことや「4月1日のエイプリルフールに結婚式が行われる」ことで、世間からはジョークと受け止められたようですが、2人は真剣でした。

1946(昭和21)年には休刊していた「スタイル」誌を復刊させるなど、宇野千代さんと北原武夫のコンビは上手くい回ってましたが、1959(昭和34)年ごろ「スタイル社」が資金に詰まると、2人の仲は夫婦と呼べるようなものではなく、ただ借金を返すためだけの「戦友」に。

結局、宇野千代さんは1964(昭和39)年に北原武夫と離婚。4回目の離婚を経験することになりました。

東郷青児との同棲など

実は宇野千代さんは、尾崎士郎と3回目の離婚(1930年)から、北原武夫との4回目の結婚(1939年)の間に、洋画家の東郷青児と東京・世田谷の淡島(現在の東京都世田谷区代沢)において約4年にわたる同棲生活も経験しています。

また藤村忠と2回目の結婚(1919年)をする以前、山口県川下村の小学校で代用教員をしていた時期(1914~1915年)に、同僚の教師と恋愛。しかし宇野千代さんの恋は実らず傷心の状態で京城(現在の韓国・ソウル)に渡った過去もありました。

このように宇野千代さんは4回の結婚・離婚の他に、恋多き人生を送ったことでも知られています。

宇野千代 何した人 関連記事と参考文献

宇野千代 何した人 関連記事

宇野千代さんの98年余にわたる多彩で自由奔放な人生の年表については下記の記事が参考になります。

宇野千代 何した人 参考文献

今回の記事は以下の書籍を参考としています。

著:宇野 千代, 著:小林庸浩 ほか, 著:小林庸浩 ほか
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