ばけばけの勲(いさお)と次男・稲垣巌
ばけばけ 第24週からトキとヘブンの次男として勲が登場
NHKの2024年朝ドラ「ばけばけ」の第24週からトキと八雲(ヘブン)(トミー・バストウ)の2番目の子供として、勲(いさお)という男の子が登場します。
この勲という男の子は、実在した小泉八雲・小泉セツ夫妻の次男で、1897(明治30)年2月15日に生まれた稲垣巌(いながきいわお)をモデルにしていると考えられます。
勲のモデルとなった稲垣巌の名前について
小泉八雲と小泉セツの子供であるにも関わらず、なぜ苗字が「稲垣」になっているのでしょうか?
理由は後の年表でも記しているように、巌は4才のときに、母・小泉セツの養家である稲垣家と養子縁組をしているからです。そもそも小泉セツ自体が子供のいない稲垣家に養子に入ったぐらいなので、稲垣家には家名を継ぐ人間がいませんでした。
そのため家名存続のために次男の巌が、稲垣家の養子になるという体裁をとったのです。もっとも養子になったと言っても、実際の養育は小泉八雲と小泉セツの手によってなされていました。
なお「巌」という名前は陸軍元帥の大山巌(おおやまいわお)や、巌の曽祖父にあたる小泉岩苔(こいずみがんたい)(「巌」という字には「苔むす岩」という意味がある)にちなんでつけられたと言われています。
稲垣巌とはどんな人物だったのか?
稲垣巌とは
稲垣巌は岡山の第六高等学校(現在の岡山大学)を経て、京都帝国大学(現在の京都大学)に入学。卒業後は京都府立桃山中学校(現在の京都府立桃山高等学校)に勤務することになります。
ありきたりな解釈ではつまらないということで、ジェスチャーを交えて面白おかしく英語を説明するなど、生徒たちからは大変人気のある先生だったようです。
後年、桃山中学で稲垣巌の教え子だった、小野木重治は京都大学工学部や松江専門高等学校校長などを歴任したのち、「ある英語教師の思い出: 小泉八雲の次男・稲垣巖の生涯」を1992(平成4)年に出版。同書の中で稲垣巌が桃山中学の生徒や同僚教師からいかに慕われていたか紹介されています。
稲垣巌の年表
| 西暦(和暦) | 年齢 | できごと |
|---|---|---|
| 1897(明治30)年 | 0才 | 2月15日に小泉八雲・セツ夫妻の次男として東京市牛込区市ヶ谷富久町で誕生 |
| 1901(明治34)年 | 4才 | 小泉セツの養家・稲垣家と養子縁組し、苗字を「稲垣」に改姓 |
| 1904(明治37)年 | 7才 | 父・小泉八雲が狭心症のため死去 |
| 1920(大正9)年 | 23才 | 6月に岡山の第六高等学校を卒業し、7月に京都帝国大学工学部に入学 |
| 1922(大正11)年 | 25才 | 種市翠と学生結婚。京都帝国大学工学部から除籍処分を受ける |
| 1923(大正12)年 | 26才 | 長女・八重子が誕生 |
| 1924(大正13)年 | 27才 | 京都帝国大学文学部に入学 |
| 1927(昭和2)年 | 30才 | 京都帝国大学文学部を卒業 |
| 1928(昭和3)年 | 31才 | 京都府立桃山中学校に英語教師として赴任 |
| 1932(昭和7)年 | 35才 | 母・小泉セツが脳溢血のため死去 |
| 1934(昭和9)年 | 37才 | 6月に翠が京子・明男を連れて八戸の実家に去る。7月には長女・八重子も八戸に去る。9月に京大病院で睾丸にできた癌の摘出手術を受ける |
| 1937(昭和12)年 | 40才 | 6月に癌が再発し京大病院に入院。8月15日に転院先の慶応病院で亡くなる。 |
稲垣巌の子孫たち
稲垣巌には長女・八重子さん、次女・京子さんと、長男・明男さんの3人の子供がいました。その稲垣巌の家系から守谷天由子さんが活躍されています。
守谷天由子さんは小泉八雲・セツ夫妻から見ると玄孫に、稲垣巌から見るとひ孫に当たります。
小泉八雲とセツ 4人の子供たち 一雄・巌・清・寿々子
小泉八雲・セツ夫妻には三男一女の子供たちがいた
実在した小泉八雲・セツ夫妻には次男の小泉一雄以外にも、長男・一雄、三男・清、長女・寿々子と、合計で4人の子供たちがいました。
以下の記事では小泉一雄の弟妹となる一雄・清・寿々子の3人の兄妹たちについて簡単に紹介します。
長男・小泉一雄(こいずみかずお)
小泉一雄は1893(明治26)年11月15日に熊本において、小泉八雲・セツ夫妻の長男として誕生。
1917(大正6)年に早稲田大学を卒業後、1921(大正10)年まで拓殖大学教務課に勤務。その後、小泉八雲の友人であるミッチェル・マクドナルの肝煎りで横浜グラントホテルに勤務。
1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災で横浜グラントホテルが倒壊したのちは、父・小泉八雲の遺稿を収集・整理を開始。自らも執筆活動に励み「父小泉八雲」や「父「八雲」を憶う」という著作を残しています。
さらに戦後にはGHQ(連合国最高司令官総司令部)の最高司令官であるダグラス・マッカーサー元帥(1860~1964年)の秘書官で、日本の天皇制が存続できるよう奔走したボナー・フェラーズ准将(1896~1973年)と交際があったことも有名です。
三男・小泉清(こいずみきよし)
小泉清(1899~1962年)は小泉八雲・セツ夫妻の三男。
1919(大正8)年に東京美術学校(現在の東京藝術大学)西洋画科に入学するも、針シズと学生結婚をし中退。46才のときに第1回新興日本美術展で読売賞を受賞し、画壇に名を連ねるようになります。
長女・小泉寿々子(こいずみすずこ)
小泉寿々子(1903~1944年)は小泉八雲・セツ夫妻の長女。
幼少の頃に猩紅熱から脳膜炎を引き起こしています。そのため生涯のほとんどにおいて母・小泉セツや長兄にあたる小泉一雄など身近な家族たちと暮らしていました。
ばけばけ 勲 関連記事と参考文献
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ばけばけ 勲 参考文献
今回の記事は以下の書籍を参考文献としています。
