大山捨松と子供たちとの関係
大山捨松とは
NHKの2026年前期朝ドラ「風、薫る」に登場する大山捨松(おおやますてまつ)(多部未華子)とは実在の人物です。
大山捨松は1871(明治4)年、11才のときに日本初の女子留学生として津田梅子・永井繁子らと渡米したことで知られています。
留学中にアメリカのヴァサーカレッジを学士号を取得し卒業。1882(明治15)年に帰国。翌1883(明治16)年に陸軍卿・大山巌(おおやまいわお)と結婚。
「鹿鳴館時代」に社交界の中心として有志共立東京病院(現在の東京慈恵医科大学附属病院)への寄付活動に貢献したほか、日本赤十字社篤志看護婦人会などの社会活動や女子英学塾(後の津田塾大学)の設立・運営にも尽力しました。
大山巌との結婚と3人の継子たち
大山捨松が1883(明治16)年に結婚したとき、結婚相手の大山巌には3人の子供たち(信子・芙蓉子・留子)がいました。実は大山巌には結婚歴があり、1882(明治15)年に沢(さわ)という妻を留子の出産の後に亡くしています。
つまり大山捨松は結婚したと同時にいきなり3人の継母となったのです。
大山捨松の子供たち(実子たち)
五女: 久子(ひさこ)
久子(ひさこ)は、1884(明治17)年11月1日に大山巌と大山捨松の間にできた最初の子供として誕生。
大山巌は前妻・沢との間にすでに4人の女子(次女の美津子は夭逝)をもうけていたため、大山家の娘としては五女。1906年12月に陸軍中尉・井田磐楠(いだいわくす)男爵と結婚。
長男: 高(たかし)
高(たかし)は、1886(明治19)年2月16日に大山巌と大山捨松の長男として誕生。
士官候補生として海軍兵学校に進学。1908(明治41)年に「松島」の乗組となり練習艦隊で遠洋航海に出航。その航海中に停泊していた澎湖島の馬公港で発生した弾薬庫の爆発事故に艦が巻き込まれ、艦長以下他の約200名の士官たちとともに殉職。
次男: 柏(かしわ)
柏(かしわ)は、1889(明治22)年6月2日に大山巌と大山捨松の次男として誕生。
当初は鮫島家の養子となる予定であったが、1908(明治41)年に兄・高が亡くなったことから、急遽大山家の家督を継ぐことになる。学習院を中退し陸軍幼年学校に入学し、陸軍少佐まで進級。
のちに考古学の研究に没頭するようになり、慶應義塾大学文学教授などを歴任。
大山捨松の子供たち(継子たち)
長女: 信子(のぶこ)
信子(のぶこ)は、1876(明治9)年に大山巌と前妻の沢との間に誕生した長女。大山捨松にとっては継子。
1893(明治26)年4月にのちに日本銀行総裁となる三島弥太郎に嫁ぐも、同年の冬にインフルエンザに罹り、離縁されてしまい、1896(明治29)年5月25日に死去。
徳富蘆花の小説「不如帰」に登場するヒロイン・浪子のモデル。
三女: 芙蓉子(ふよこ)
芙蓉子(ふよこ)は、大山巌と前妻の沢との間に誕生した三女。大山捨松にとっては継子。陸軍伍長の細川一之助に嫁ぐ。
四女: 留子(とめこ)
留子(とめこ)は、大山巌と前妻の沢との間に誕生した四女。大山捨松にとっては継子。日本銀行に勤務する渡辺千春と結婚。
「鹿鳴館の貴婦人大山捨松: 日本初の女子留学生 (中公文庫 く 12-1)」の著者である久野明子(くのあきこ)さんは、留子の孫で、大山捨松のひ孫にあたります。
大山捨松 子供 関連記事と参考文献
大山捨松 子供 関連記事
朝ドラ「風、薫る」や、その主人公のモデル・一ノ瀬りん(見上愛)のモデルとなった大関和さんと大山捨松の関わりについては以下の記事でも言及しています。合わせて参考にしてください。
また大山捨松自身の話題については下記の記事が参考になります。
大山捨松 子供 参考文献
今回の記事は以下の書籍を参考文献としています。
