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一ノ瀬りんのモデルは誰?大関和の生涯・年表・実在人物を解説

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目次

一ノ瀬りんのモデルは誰?

一ノ瀬りんのモデルは、明治時代の看護師・大関和です。日本で初期の看護制度の確立に貢献した人物として知られています。

NHKの朝ドラ「風、薫る」の主人公・一ノ瀬りんは、実在した大関和(おおぜきちか、1858〜1932年)さんをモデルとして知られています。

一ノ瀬りんのモデル・大関和とはどんな人物か

明治のナイチンゲールと呼ばれた理由

大関和さんは明治時代にトレインドナース(正規に訓練された看護師のこと)となり、明治・大正期を通じて看護婦という職業の確立に多大な貢献・尽力をされました。

その活躍から大関和さんは「明治のナイチンゲール」とも呼ばれています。

看護制度に与えた影響

大関和さんがトレインドナースの資格を得た年は1888(明治21)年10月です。

この年は大関和さんが卒業した看護学校以外でも、正規の教育と訓練を受けたトレインドナースたちが誕生しました。大関和さんたちの存在は、黎明期にあった日本の近代看護制度に大きな影響を与えたといっても良いでしょう。

一ノ瀬りんとモデル大関和の違い(ドラマとの比較)

ドラマと実在モデルとの違い

「風、薫る」の主人公・一ノ瀬りん(見上愛)は実在した大関和さんをモデルとしていますが、ドラマではいくつか設定が変更されています。

帰農していなかった父

「風、薫る」の第1週において、一ノ瀬りんの父・一ノ瀬信右衛門(北村一輝)は、藩の家老をしていたが帰農をして百姓をしていると説明されています。

しかし大関和さんの父で、実在した大関弾右衛門増虎は、下野国にあった黒羽藩で国家老をしていましたが、帰農はしていません。

確かに1869(明治2)年に藩内の財政改革が頓挫したことに責任を感じ、一度は武士そのものを辞めて帰農することを決意しました。

ただ前藩主・大関増裕の妻・於待(おまち)から強く慰留され、「家老を辞めて帰農する」のではなく、「家老から家知事に降格する」という処分に変えてもらっています。

夫との離婚理由は酒乱ではなく不貞

「風、薫る」の第2週において、りんは娘の環を連れて婚家である奥田家を飛び出すという場面が描写されます。酒乱の夫である奥田亀吉(三浦貴大)が盃を投げつけて失火をしたしませいです。

大関和さんも1880(明治13)年に夫・渡辺福之進豊綱と別れることになりますが、離婚の主たる理由は夫の不貞によるものです。

渡辺福之進豊綱には大関和さんと結婚する前からすでに5人の妾がおり、大関和さんは夫の一方的な不貞に耐えることができませんでした。

子供は1人ではなく2人

第3週以降でりんは女手1つで一人娘の環を養うことになり、第4週で亀吉と正式に離婚します。

しかし大関和さんが夫・渡辺福之進豊綱と離婚するまでの間にできた子供は、1人ではなく2人です。大関和さんには、1877(明治10)年生まれの長男・大関六郎さんと、1880(明治13)年生まれの長女・大関心さんがいました。

この大関心さんが、「風、薫る」に登場する環のモデルになっていると考えられます。

看護婦を志した理由は牧師・植村正久の勧めに基づく

第4週においてりんは「鹿鳴館の華」と言われた大山捨松(多部未華子)からトレインドナースとなるよう勧められます。

しかし実在の大関和さんにトレインドナースとなることを強く勧めたのは、牧師・植村正久吉江善作のモデル)です。

植村正久は、桜井女学校と桜井女学校附属看護婦養成所(梅岡看護婦養成所のモデルとなった看護学校)の経営者であったマリア・T・ツルーメアリーのモデル)と以前から知り合いであり、現在の東京都千代田区にあたる土地で新しく看護学校ができることを、早い段階から知っていたようです。

大関和の年表

大関和の生涯

大関和さんが幕末期に生まれて、昭和初期に74才で亡くなるまでに歩んだ人生を年表にすると、以下の通りになります。

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西暦(和暦)年齢できごと
1858(安政5) 年0才4月11日に下野国黒羽藩の家老・大関弾右衛門の間に二男三女の次女として誕生
1868(明治元)年10才明治維新に伴い父・弾右衛門が黒羽藩の家老を辞職
1876(明治9)年18才黒羽で渡辺福之進豊綱と結婚父・弾右衛門が死去
1877(明治10)年19才長男・六郎を出産
1880(明治13)年22才長女・心(しん)を出産し、夫と離婚
1881(明治14)年23才実家の家族と上京。英語塾に通い始める
1882(明治15)年24才下谷一致教会の                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          牧師・植村正久と出会う
1886(明治19)年28才植村正久牧師から看護婦(トレインド・ナース)になるよう説得を受ける
1887(明治20)年29才1月に桜井女学校(現・女子学院)内の桜井看護学校に入学し鈴木雅と出会う。3月にキリスト教の洗礼を受ける
1888(明治21)年30才10月に桜井看護学校を卒業。トレインドナースとして帝国大学医科大学第一医院外科看病婦取締となる
1889(明治22)年31才帝大の寄宿舎が火災に遭い負傷者の篤志看護を申し出る。このころ相馬愛蔵と知り合う
1890(明治23)年32才第一医院外科医局長・佐藤三吉に看病婦の待遇改善に関する建議書を提出。11月に第一医院を退職し、高田女学校の舎監に転ずる
1891(明治24)年33才2月に高田の廃娼活動に参加し、5月に木下尚江と知り合う。11月に知命堂病院の看護婦長に就任
1894(明治27)年36才知命堂病院産婆看護婦養成所の兼任講師となる
1896(明治29)年38才高田を去り、上京。鈴木雅が経営する派出看護婦会である「東京看護婦会」付属の東京看護婦講習所に講師として参画
1898(明治31)年40才木下尚江に求婚される相馬愛蔵の反対などもあり破談
1899(明治32)年41才7月に「派出看護婦心得」を出版。11月に「大日本看護婦人矯風会」を設立
1900(明治33)年42才6月に長女の心が20才で結核のため死去
1901(明治34)年43才「東京看護婦会」を辞職。箱根湯本に引きこもるも、鈴木雅から「東京看護婦会」の経営を引き継ぐ
1904(明治37)年46才長男・六郎が結婚。日露戦争に出征した兵士へ送る慰問袋作りに奔走
1907(明治40)年49才7月に弟・復彦を亡くし、遺児の増博を妹・に預ける。
1908(明治41)年50才「実地看護法」を出版
1909(明治42)年51才11月にキリスト教主義の「大関看護婦会」を設立。孫の一郎が誕生
1910(明治43)年52才長男・六郎がジャワでマラリアに感染して33才で病死
1912(大正元)年54才母・哲が亡くなる
1923(大正12)年65才関東大震災のため大関看護婦会が焼失
1926(大正15)年68才NHKの「家庭講座」にラジオ出演
1929(昭和4)年71才脳溢血を患い半身不随となる。川原貞を後継者に指名
1932(昭和7)年74才5月22日に死去

大関和の人物像とエピソード

大関和は何をした人なのか?

大関和さんは1909(明治42)年に、それまで経営していた「東京看護婦会」を改称して、キリスト教の「奉仕の精神」を理念とした派出看護婦会の「大関看護婦会」を設立しました。

また長年に渡りトレインドナースとして研鑽を積んだことを活かして「派出看護婦心得(1899年)」や「実地看護法(1908年)」といった看護技術に関わる著作も残されています。

時間の経過を交えて大関和さんが具体的に何をした人であるかについては下記の記事で詳しく解説しています。

大関和とはどんな人物だったのか

大関和さんの人柄を端的に説明すると、

  • 「1. 決断したらクヨクヨしない」
  • 「2. 困った人を放っておけない」
  • 「3.人目を引く美人だった」
  • 「4. 感情が昂りやすい」
  • 「5. ノブレス・オブリージュの持ち主」
  • 「6. 金銭にこだわりがない」

といった特徴が挙げられます。

大関和さんがどんな人であったのか、さらに知りたい方は下記の記事をクリックしてください。それぞれ具体的なエピソードを交えて紹介しています。

大関和の看護プロフィール

大関和さんは「家老の娘」であったこともあり、トレインドナースになったのち、政界・官界・財界など日本の指導者層やその家族の看護を依頼されることが多くありました。

例えば明治時代に閣僚を経験した後藤象二郎や、日露戦争時に満洲軍総参謀長を務めた児玉源太郎の妻・児玉松子などは、大関和さんの看護を受けていました。

大関和さんの看護を受けたことがある他の有名人については下記の記事で説明しています。

大関和と鈴木雅の関係

大関和さんの同期生として桜井女学校附属看護婦養成所を卒業しトレインドナースとなった女性の1人として鈴木雅さんがいます。鈴木雅さんは「風、薫る」の大家直美(上坂樹里)のモデルであり、大関和さんとは「盟友」の関係にあります。

大関和さんと鈴木雅さんが「盟友」であったと言えるのは、1891(明治24)年に鈴木雅さんが日本で初めて個人経営の派出看護婦会である「慈善看護婦会」を設立したことに始まります。

そんな大関和さんと鈴木雅さんの関係については下記の記事が参考になるでしょう。

大関和の死因

大関和さんは晩年に脳溢血を患っていましたが、直接の死因について明確な記録が残っていません。

ただ前後の状況から考えて老衰のため亡くなったと考えるのが妥当でしょう。大関和さんの死因については、以下の記事で詳しく解説しています。

大関和はいつ死去したのか

大関和さんは1932(昭和7)年5月22日に死去しました。享年74でした。大関和さんが死去したときの様子や葬儀のエピソードについては、以下の記事で詳しく解説しています。

風、薫る 全話あらすじと最終回までのネタバレ

風、薫る 全話あらすじ

朝ドラ「風、薫る」のあらすじ全話まとめ・登場人物とキャスト・モデル人物・相関図を知りたい方は、下記の記事が参考になるでしょう。

風、薫る 最終回までのネタバレ

また「風、薫る」の最終回までのネタバレ・史実解説・家系図・結末などを知りたい方は下記の記事を参考にしてください。

一ノ瀬りん モデル 関連記事と参考文献

一ノ瀬りん モデル 関連記事

「風、薫る」の一ノ瀬りんのモデルとなった大関和さんのことをさらに理解するためには、明治時代の看護界で使われた特徴的な用語である、「トレインドナース」・「派出看護婦」・「派出看護婦会」といった言葉を理解することをお勧めします。

それぞれの用語の意味や歴史的背景などについて下記の記事で分かりやすく説明しています。

また「風、薫る」のもう1人の主人公・大家直美のモデルで、大関和さんのバディである鈴木雅さんが、どんな人物っだったかについては下記の記事で詳しく紹介しています。

一ノ瀬りん モデル 参考文献

朝ドラ「風、薫る」の一ノ瀬りんのモデルとなった大関和さんについて説明する記事を書くために参考とした文献は以下の通りです。

著:田中ひかる
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NHK出版
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