結論:大関和は1932年に74歳で死去
晩年の大関和さんは脳溢血の後遺症により半身不随の状態でしたが、最期は静かに息を引き取ったと伝えられています。
大関和の最期の様子
どこで亡くなったか
大関和さんがどこで亡くなったか記録する資料はありません。
しかし、大関和さんの最晩年の様子を詳しく記している「大風のように生きて: 日本最初の看護婦大関和物語」の記述をもとにすると、病院ではなく東京の自宅で亡くなったと考える方が妥当でしょう。
どんな状況だったか
晩年の大関和(一ノ瀬りんのモデル)さんは脳溢血のため半身不随の状態でした。そのため、妹・川原釛(大関釛)(「風、薫る」の一ノ瀬安のモデル)が食事などの介護をしていたようです。
またそのような状況を気遣って「新宿中村屋」の創業者である、相馬愛蔵(「風、薫る」の丸山忠蔵のモデル)が見舞金を携えて、見舞いに訪れることがよくありました。
大関和 死去当時の報道
大関和の訃報が掲載される: 東京朝日新聞(1932年5月24日付)
1932(昭和7)年5月24日付の「東京朝日新聞」の訃報欄には、大関和さんの死と故人の業績に関する記事が掲載されています。
大関ちか子女史 日本最初の看護婦
日本最初の看護婦で本郷弓町一ノ二六大関看護婦会会長大関ちか子女史は一昨年来脳溢血のため臥床中であつたが二十二日午後十一時二十分七十五歳の高齢で死去した
日本に始めて看護婦養成所が桜井女学校内に出来たのが明治十六年その時「娘としてははしたない仕事」といふ世評を一蹴して女史は一年の教育を受け直に帝大付属病院に勤務、職業婦人の先べんをつけたわけである。後同四十三年大関看護婦会を開いて現在に及んだ
告別式は二十五日午後二時から牛込見附富士見教会で行わはるはず
なお「東京朝日新聞」は「看護婦養成所が桜井女学校内に出来たのが明治十六年」としていますが、明治16(1883)年ではなく明治21(1883)年です。
また「女史は一年の教育を受け」たとしていますが、大関和さんがトレインドナースとなるために「桜井女学校附属看護婦養成所(「風、薫る」の梅岡看護婦養成所のモデル)」で看護教育を受けた期間は、1年ではなく1年10ヶ月です。記事を訂正する根拠については下記の記事が参考になるでしょう。
なお「大風のように生きて: 日本最初の看護婦大関和物語」は訃報欄の記事をそのまま引用していますが、「東京朝日新聞」が事実誤認している箇所については「ママ」と記して訂正をしています。
ラジオによる報道
さらに「大風のように生きて: 日本最初の看護婦大関和物語」によると、大関和さんの死は新聞ばかりでなく、ラジオでも報道されました。
ラジオで大関和さんの死をどのように伝えられていたかは分かりません。当時、ラジオは1925(大正14)年7月12日に愛宕山から本放送が開始されたばかりの新しいメディアでした。
大関和さんの死は。日本のさまざな層に伝わったと考えられます。
大関和 死後のエピソード
葬儀の様子
大関和さんの葬儀は「東京朝日新聞」で報道された通り、かつて大関和さんが「人生の師」として仰いでいた植村正久(「風、薫る」の吉江善作のモデル)が主任牧師を務めていた富士見町教会で行われました。
大関和さんの葬儀にはその死を悼むために届けられた夥しい数の花輪の数が。さらに弔問客から遺族に渡された香典は帛紗では包むことができず、風呂敷に包まれたそうです。香典の額は総額で1,800円(現在の貨幣価値にして約600万円)もの大金に上ったと言われています。
この盛大な葬儀のエピソードは、大関和さんがトレインドナースとして生前、政界・財界・官界などで要職を経験した人物(後藤象二郎・相馬愛蔵・長田銈太郎など)の看護を担当したことに加え、身寄りがなかったり貧窮した患者には身銭を切って看護に尽くしていたことの表れでもあったと言えるでしょう。
大関看護婦会の経営権
ただし、大関和さんの死を悼むために集まった1,800円の香典はすぐに無くなってしまいます。
なぜなら大関和さんが亡くなった当時、派出看護婦会の「大関看護婦会」には3,000円の借金が残っている状態で、その借金返済のために使われたからです。
確かに大関和さんは「家老の娘」として政界・財界・官界などで要職を経験した上流階級の人たちを顧客にしていた一方で、低所得者や貧窮者などには私財を投じて看護にあたっていました。
上流階級の人から看護料とは別に高価な舶来品や着物をもらっても、それらはほとんどが質屋の質草になっており、「大関看護婦会」の財政状況は常に「火の車」だったそうです。
ちなみに3,000円の借金に対して、香典代の1,800円を返済に充ててもまだ1,200円の負債が残った状態です。「大風のように生きて: 日本最初の看護婦大関和物語」によると、マイナス分は「大関看護婦会」の経営権を売却するなどして賄われたとあります。
大関和 死後の評価
1932(昭和7)年5月24日付の「東京朝日新聞」の訃報欄によると、大関和さんをして「職業婦人の先べんをつけた」と表現しています。
大関和さんがトレインドナース(現在の看護師のこと)となった1888(明治21)年の日本では、看護婦は「金のために病人の世話をする卑しい職業」と見なされていました。
この訃報欄には「「娘としてははしたない仕事」といふ世評を一蹴して」と書かれていますが、その評価は現代の日本人が看護師に対するイメージと何ら変わりはありません。
つまり、大関和さんは「専門の知識と経験を持って患者の看護にあたる」という、看護師一般に対するイメージを体現した女性だったという評価ができるでしょう。
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なお今回の記事を作成するにあたって、下記の文献を参考にしています。これらのうち「明治のナイチンゲール 大関和物語」はNHKの朝ドラ「風、薫る」の原案となっている本です。
