大関釛(おおぜきこく)は、「日本最初期のトレインドナース」と呼ばれる大関和の妹として、大関家を陰から支え続けた人物です。
結論から言うと、大関釛は結婚して家庭を築きながら、甥の養育や姉・大関和の介護まで担った“家庭を守る側”の人物でした。
また朝ドラ「風、薫る」の一ノ瀬安のモデルと考えられており、
▼要点まとめ
・大関和の8歳年下の妹
・川原健次郎と結婚して「川原釛」となる
・甥・大関増博も養育
・晩年は大関和の介護を支えた可能性が高い
・「風、薫る」の一ノ瀬安のモデルと考えられる
本記事では、大関釛の生涯を、家族関係・結婚生活・大関和との関係を中心に詳しく解説します。
また朝ドラ「風、薫る」の一ノ瀬安について知りたい方は、こちらの記事をご覧ください。
安と槇村宗一の結婚話については、こちらの記事で詳しく解説しています。
結論|大関釛は大関和を支え続けた妹
大関釛(おおぜきこく)さんは、「日本で最初期に存在したトレインドナース」とも呼ばれる大関和さんの妹として、長年にわたり大関家を支え続けた人物です。
姉・大関和さんが看護婦として社会の第一線で活動する一方、釛さんは結婚して家庭を築き、家事や育児、さらに甥の養育まで担いながら、一族を陰から支え続けました。
また晩年には、脳溢血で半身不随となった大関和さんの介護にもあたっていたと考えられており、最後まで姉妹の深い結びつきは続いていたようです。
朝ドラ「風、薫る」に登場する一ノ瀬安のモデルと考えられている人物でもあり、
・家庭的な性格
・姉を支える立場
・結婚して家庭を築く人生
など、多くの共通点が見られます。
▼要点まとめ
・大関和の8歳年下の妹
・物静かで家庭的な性格だったと言われる
・川原健次郎と結婚して「川原釛」となる
・甥の大関増博も養育
・晩年は大関和の介護を支えた
・朝ドラ「風、薫る」の一ノ瀬安のモデルと考えられる
朝ドラ「風、薫る」の一ノ瀬安について詳しく知りたい方は、こちらの記事をご覧ください。
安と槇村宗一の結婚話については、こちらの記事で詳しく解説しています。
大関釛とはどんな人物?
大関和の妹として誕生
大関釛(おおぜきこく)さんは、1866(慶応2)年に大関弾右衛門増虎(「風、薫る」の信右衛門のモデル)とその妻・大関哲(美津のモデル)の三女として誕生。
父の弾右衛門増虎は旧幕時代には黒羽藩の国家老を務めており、母の哲は那須烏山藩を藩主として治めていた大久保家出身でした。
大関釛さんの兄弟姉妹には、姉に八千代(やちよ)さんと和(ちか。「風、薫る」のりんのモデル)さんが、兄は復彦(ふくひこ)さんと衛(まもる)さんがいます。
釛さんは五人兄弟の末っ子で、1858(安政5)年生まれの大関和さんから見て、8才年下の妹でした。
物静かな性格だった
大関釛さんの姉・大関和さんは直情的で感情が昂ると目から涙が溢れるという激しい性格だったようです。
しかし妹の大関釛さんは、大関和さんとは反対で物静かな性格であったと言われています。
大関和とともに一家揃って東京へ移住
姉・大関和の離婚と上京
1880(明治13)年、大関和さんは夫・渡辺福乃進豊綱(「風、薫る」の奥田亀吉のモデル)と離婚したことにより、栃木県那須地方の黒羽(現在の栃木県大田原市黒羽地区)から東京へ一家揃って移住することを決意。
このとき妹である大関釛さんも姉の大関和さんに従って東京へ移住しました。
東京に移住したのちの生活
東京へ移住した大関釛さんは、しばらくの間、母・大関哲や甥や姪にあたる大関六郎さんや大関心(「風、薫る」の環のモデル)とともに生活していたようです。
その後、1884(明治17)年、栃木県烏山町(現在の那須烏山市)に住んでいた川原健次郎(かわはらけんじろう)さんと結婚することになり、名前を「川原釛(かわはらこく)」と改めます。
大関釛の結婚相手は川原健次郎
川原健次郎とはどんな人物?
川原釛さんの夫である川原健次郎さんは、結婚する際に栃木県烏山町に住んでいたと伝わっています。
ただし大関和さんの伝記を記した「大風のように生きて: 日本最初の看護婦大関和物語」によると、住んでいた場所については言及しているものの、職業や性格などの人物像は伝わっていません。
栃木県烏山町つながり
ただ大関釛さんの母・大関哲は旧幕時代に那須烏山藩を治めていた藩主・大久保家の娘です。
このことから結婚前に東京に住んでいた釛さんと、栃木県烏山町に住んでいた川原健次郎さんは、大関哲の地縁を頼って結婚したのかもしれません。
川原釛(大関釛)の結婚生活
釛の子供たち 長男・諭と次男・博巳
釛さんは川原健次郎さんと結婚して川原釛と改称。2人の間には長男の諭(さとる)さんと次男の博巳(ひろみ)さんという2人の子供が誕生します。
甥・大関増博を養育
釛さんが育てたのは長男・諭さんと次男・博巳さんだけではありません。
兄・大関復彦さんの遺児で甥にあたる、大関増博(おおぜきますひろ)さんの養育にあたり、旧制中学だった烏山中学(のちの栃木県立烏山高等学校)に進学させたことまでが分かっています。
釛さんが大関増博さんを養育した背景には、姉・大関和さんに「一族の人間は誰も見捨てない」という名族意識から来る強い意向が働いていたと考えられます。
夫・川原健次郎が死去
1909(明治42)年には川原健次郎さんが死去します。死因は不明です。
姉・大関和と同居を開始
次男・博巳とともに上京
1912(明治45/大正元)年ごろ、釛さんは次男の博巳さんを伴って上京。博巳さんを東京専門学校(現在の早稲田大学)の英文科に入学させるためです。
このときから、釛さんと博巳さんは姉・大関和さんの家に留まって、釛さんが大関家の家事を一手に引き受けます。
内助の功として大関家を支える
1912(明治45/大正元)年ごろの大関和さんは派出看護婦会の「大関看護婦会」を経営するなど、看護婦の業界では大変有名な人物でした。
さらに大関和さんの親族は男性よりも女性が多かったせいもあり、一家は「女系家族」の様相を呈していました。
そのため、東京の大関家における「一家の家長」は大関和さんであり、「内助の功」として妹の釛さんが家の中を支えるという関係になっていたようです。
次男・川原博巳と鹿内貞の結婚
鹿内貞とはどんな人物?
1920(大正9)年、大関和さんは本多庸一(青山学院の第2代院長)・本多貞子(淑徳女学校の設立者)夫妻から依頼され、看護婦に憧れる鹿内貞(しかうちてい)さんを「大関看護婦会」で預かることになります。
同年の春、鹿内貞は大日本看護婦協会附属の東京看護婦学校に入学。両親を早くに亡くしていたこともあり、小学校卒業の学歴しかありませんでしたが、11月に行われた看護婦試験では「大関看護婦会」から出した合格者は、鹿内貞さんだけ。
試験に合格した鹿内貞は東京市駒込病院で実習を行い、その実習を終えたのちは「大関看護婦会」の他の看護婦たちとともに感染症予防の注射などを目的とした奉仕活動などにも参加しました。
大関和が甥・川原博巳と鹿内貞との結婚を猛烈にプッシュ
こうした鹿内貞さんの学業や看護活動を大関和さんは、トレインドナースとは別の目線で見ていました。温和でしっかりした性格の持ち主であった鹿内貞さんに対し、甥・川原博巳さんの結婚相手になってほしいと懇願し出したのです。
その貞に、和が妹釛の息子博巳の妻になってくれ、と言い出した。貞はやっと一人前の看護婦になれる、自活できる、と思った矢先のことで、和の言葉に動転してしまった。和は必死に貞に頼みこみ、しまいには泣きながら「博巳の嫁になってちょうだい」とまで言う。
このとき鹿内貞さんは「なぜ女性は自分の意志だけで生きていけないのだろうか」と失望を覚えたそうです。
結局、鹿内貞さんは大関和さんに根負け。提案を受け入れて、1921(大正10)年3月20日に川原博巳さんと結婚することになりました。
川原釛と鹿内貞との関係
なお「大風のように生きて: 日本最初の看護婦大関和物語」を読む限り、この鹿内貞さんと川原博巳さんの結婚について、川原釛さんが口を挟んだ形跡は見られません。
若い2人が結婚するという事実を淡々と受け入れたようです。
一九二一(大正一〇)年三月二〇日、貞は川原博巳と結婚した。博巳は貞よりも一〇歳年上で、新聞記者になっていた。姑にあたる釛は物静かで温かく、貞に優しく接してくれる。釛は通称「サダ」と呼ばれていた。和の蔭で台所仕事などを手伝い続けている。
冒頭で述べたように釛さんは、直情的な性格の持ち主であったとは違って、大変おとなしい性格だったと言われています。
川原博巳さんと鹿内貞さんの結婚エピソードは、大関和さんと釛さんは、いかにも対照的な性格を持つ姉妹だったことを示す例であるとも言えるでしょう。
鹿内貞と大関看護婦会との関係
さらに鹿内貞さんは1929(昭和4)年に大関和さんから「大関看護婦会」の後継者に指名され、会の経営に携わることにもなります。
ただ鹿内貞さんが「大関看護婦会」の経営に携わったのは1年間だけです。その後は、斎藤アサヨさんという、大関和さんの別の弟子が経営を引き継ぐことになりました。
晩年の大関和を支える
半身不随となった大関和
大関和さんの伝記を記した「大風のように生きて: 日本最初の看護婦大関和物語」によると、晩年の大関和さんは脳溢血が原因で半身不随となり、日常生活を送るにも介護の助けが必要だったようです。
妹・釛が介護を担う
その大関和さんの介護を担った1人が妹の川原釛さんでした。
「大風のように生きて: 日本最初の看護婦大関和物語」では、釛さんが最晩年にあった大関和さんの介護をしながら他愛もない会話をしていたときの記録が残されています。
なお引用した文章中にある「サダ」とは釛さんのことです。
一年も経つと、和は両手が不自由になりはじめた。食事も海苔を巻いたおむすびが多くなった。
「先生、はい、アーン」
木下操が和の口におむすびを運ぶ。子どもに返ったように和は操の言葉に従う。操が和の食事の手伝いを終えて帰った途端、和は釛に向かっていう。
「おサダさん、御飯、まだですか」
「先刻、食べたばっかりでしょ」
「いいえ、何もいただいてませんよ。おサダさん、早く御飯にしてちょうだい」
「姉さんったら、操さんに食べさせて貰ったでしょ、忘れちゃったの?」
「そんな意地悪言わないで。お腹空いたわ」
年老いた姉妹の軽い口喧嘩がはじまる。それでも釛は姉の和の世話をし続ける。
大関和の最期を看取った可能性
1932(昭和7)年5月22日に大関和さんは老衰のため75才で亡くなりますが、川原釛さんは姉・大関和さんの最期を看取った人物の1人であると考えられます。
朝ドラ「風、薫る」の一ノ瀬安との関係
一ノ瀬安のモデルと考えられる理由
朝ドラ「風、薫る」に登場する一ノ瀬安(早坂美海)は、大関和さんの妹・大関釛さんをモデルとしたキャラクターである可能性が高い人物です。
劇中の安は、
- 主人公りんの妹
- 家庭的な性格
- 家事や育児を支える存在
- 結婚して家庭を築く方向へ進む
という特徴を持っています。
一方、史実の大関釛さんも、大関和さんを陰から支え続けた人物であり、結婚後は「川原釛」として家庭を築きながら、大関家全体を支え続けました。
また晩年には、半身不随となった姉・大関和さんの介護にもあたっており、「家族を支える妹」という役割が非常に強い人物だったことが分かります。
そのため「風、薫る」の安というキャラクターには、大関釛さんの人生がかなり色濃く反映されていると考えられるでしょう。
安と大関釛の共通点
安と大関釛さんには、いくつもの共通点が見られます。
まず両者とも、「姉とは対照的な人生」を歩んでいる点です。姉である大関和さん(りん)は、看護婦として社会へ飛び込み、自立した女性として生きた人物でした。
一方の大関釛さん(安)は、結婚して家庭を築きながら、家族を支える人生を歩んでいます。
またドラマでも、
- りん → 社会へ進む人生
- 安 → 家庭を守る人生
という対照的な姉妹像が強調されています。
さらに安は、一ノ瀬家の家事や育児を支える存在として描かれていますが、史実の大関釛さんもまた、大関家の家事や生活を陰から支え続けた人物でした。
こうした点を見る限り、「風、薫る」の安という人物像は、大関釛さんの史実をかなり意識して作られている可能性が高そうです。
「家庭を守る人物」としての描写
「風、薫る」における安は、看護婦として社会へ飛び込んでいくりんとは違い、「家庭を守る人物」として描かれています。
特に第8週以降は、槇村宗一との縁談話が大きなテーマになっており、最終的には結婚へ進んでいく可能性が高い人物です。
一方、史実の大関釛さんも、川原健次郎さんと結婚して家庭を築いたのち、子供たちや甥の養育にあたるなど、家庭を支える人生を歩みました。
また晩年には姉・大関和さんの介護も担っており、最後まで「家族を支える側」の人物だったことが分かります。
そのためドラマでも安は、結婚後に完全に一ノ瀬家から離れるのではなく、引き続き家族を支え続ける存在として描かれていくのかもしれません。
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風、薫る ネタバレ最終回と全話あらすじ
風、薫る ネタバレ最終回
「風、薫る」の最終回ネタバレや、りん・直美たちの結末をまとめています。
風、薫る 全話あらすじ
第1週から最新話までのあらすじを、週ごとに整理して解説しています。
参考文献
なお今回の記事を作成するにあたって、下記の3冊の文献を参考にしています。これらのうち「明治のナイチンゲール 大関和物語」はNHKの朝ドラ「風、薫る」の原案となっている本です。
- 田中ひかる 「明治のナイチンゲール 大関和物語」中央公論新社
- 吉瀬智子・田中ひかる 連続テレビ小説 風、薫る Part1 (1) (NHKドラマ・ガイド) NHK出版
- 亀山美知子 「大風のように生きて: 日本最初の看護婦大関和物語」 ドメス出版
