女子学院は、朝ドラ「風、薫る」に登場する梅岡女学校のモデルと関係がある学校ですが、「看護学校のモデルなのか?」といった点で混同されることが少なくありません。
実際には、梅岡女学校と看護学校ではそれぞれ異なるモデルが存在し、女子学院はその一部の系譜に関わる存在です。
本記事では、桜井女学校から女子学院への流れとともに、ドラマとの正確な対応関係を整理し、誤解されやすいポイントを分かりやすく解説します。
▼ 女子学院とドラマの関係(30秒で分かる)
- 女子学院は桜井女学校をルーツに持つ学校
- 梅岡女学校のモデルの一部と考えられる
- 看護学校のモデルではない
- 看護学校のモデルは桜井女学校附属看護婦養成所
- 女学校と看護学校は別系統
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※本記事では「史実との関係」を中心に解説しています
結論:女子学院と梅岡女学校の関係
- 女子学院は朝ドラ「風、薫る」に登場する梅岡女学校のモデルと考えられる桜井女学校をルーツの1つとして持つ学校
- 女子学院は梅岡女学校のモデルと考えられる桜井女学校と新栄女学校が1890(明治23)年9月9日に合併して誕生した学校
※結論として、女子学院そのものが看護学校のモデルではなく、桜井女学校およびその付属の看護学校がそれぞれ別の形でモデルとなっています。
桜井女学校とは何か
設立背景と目的
桜井女学校は1876(明治9)年、東京・麹町区(現在の東京都千代田区)で、桜井ちかが校主(校長)として設立された女学校です。その名の通り、女子のための中等教育を目的とした学校でした。
開校してしばらくすると、経営状態が苦しくなり、アメリカの長老教会などアメリカのキリスト教団体から若干の資金援助を得て運営されるようになります。
桜井女学校の特徴
桜井女学校は設立当初、桜井ちかが独力で徳川将軍家に仕えた旗本の屋敷を借りて運営されていました。
明治初期の日本において、女子のための中等教育は主に、キリスト教の布教を最終目的としたアメリカ人宣教師たちによって行われるケースが多いという事情がありました。
例えば、「風、薫る」の主人公の一人である大家直美のモデルとなった鈴木雅(1857〜1942年)さんは、フェリス・セミナリーと日本婦女英学校を卒業されています。
これらは現在のフェリス女学院と横浜共立学園の前身にあたる学校ですが、両校ともに明治初期にアメリカ人宣教師によって開校しました。
その点、桜井女学校は日本人の手によって開校されました。女子のための中等教育を日本人の手で行った珍しいケースであると言えるでしょう。
もっとも、日本の近代看護教育について詳述する「女たちの約束: M.T.ツル-と日本最初の看護婦学校」によると、桜井女学校は開校してしばらくすると、経営状態が苦しくなってしまったようです。
そこで、同校はアメリカの長老教会などアメリカのキリスト教団体から若干の資金援助を得て運営されるようになります。
桜井女学校附属看護婦養成所との関係
設立経緯
桜井ちかが夫とともに東京から函館に転居することになります。そこで桜井ちかに代わり、1881(明治14)年、それまで新栄女学校の経営をしていた、アメリカ人宣教師で牧師でもある、マリア・T・ツルー(「風、薫る」のメアリーのモデル)が桜井女学校の経営にも携わるようになります。
このマリア・T・ツルーが、以前から日本において女性による看護人の必要性を強く感じていた人物であり、1887(明治20)年1月に桜井女学校の敷地内で桜井女学校附属看護婦養成所を開校します。
その看護学校の看護学の教授として、スコットランドの看護学校でナイチンゲール方式の看護教育を身につけ、「レディ看護婦(現場の看護婦を管理・監督する看護婦のこと)」の資格を持つアグネス・ヴェッチ(「風、薫る」のバーンズのモデル)を招聘しました。
短期間で閉校した理由(概要)
桜井女学校附属看護婦養成所は、開校後、約1年10ヶ月で閉校するに至ります(1887年1月から1888年10月26日まで)。
桜井女学校附属看護婦養成所が短期間のうちに閉校してしまった主な理由は、同校が看護学生たちの看護実習を受け入れてくれる病院施設を持たなかったためです。
看護教育の位置づけ
桜井女学校附属看護婦養成所が開校した当時、日本における近代看護教育は黎明期にありました。
そこに「最新式」とも言える、ナイチンゲール方式の看護学を身につけたアグネス・ヴェッチが、「衛生」という言葉の意味さえあやふやだった明治期の日本人に看護教育を施すことになります。
こうした当時の時代背景を踏まえると、アグネス・ヴェッチが桜井女学校附属看護婦養成所の看護学の授業で発する言葉の1つ1つが、そのまま日本の近代看護教育の礎となったと考えられるでしょう。
女子学院への流れ
新栄女学校との合併
1876(明治9)年に設立された桜井女学校は、1890(明治23)年9月9日に新栄女学校と合併。合併後の校名を女子学院に改称します。
初代院長は矢嶋楫子と発展
新しく誕生した女子学院の初代院長に就任したのは、それまで桜井女学校の校長代理を務めていた矢嶋楫子(1833-1922年)です。
矢嶋楫子は1913(大正3)年に名誉院長に退くまで、女子学院の院長として女子のための中等教育に尽力します。
よくある誤解(最重要)
看護学校は女子学院の直接の前身ではない
桜井女学校附属看護婦養成所は1887(明治20)年1月に開校したものの、1888(明治21)年10月26日に閉校しました。桜井女学校附属看護婦養成所という看護学校自体は、女子学院の直接の前身となった学校であるとは言えないでしょう。
教育機関と看護学校は別系統
桜井女学校は付属の学校として桜井女学校附属看護婦養成所を誕生しました。しかし繰り返し述べたように明治時代のうちに閉校しています。
一方、桜井女学校は1890(明治23)年9月9日に新栄女学校と合併してを女子学院と改称しました。
これらのことから、桜井女学校のちの女子学院と、看護学校である桜井女学校附属看護婦養成所の間に関係はあるものの、女子学院は桜井女学校附属看護婦養成所から直接の系譜を引いてるわけではないことが分かります。
なぜ混同されやすいのか
現在の女子学院は有名大学への著しい進学実績を誇り、東京では「女子御三家」とも呼ばれる大変有名な進学校です。
一方、NHKの朝ドラ「風、薫る」という世間からの期待が高いドラマ番組で、現在の女子学院と関わりある看護学校が物語の重要な舞台として登場することになります。
そうすると、どうしても話題性が先行して「女子学院 = 風、薫るの看護学校」、という分かりやすい図式で説明したがるのも無理がないことかもしれません。
ドラマとの関係
梅岡女学校との対応関係
朝ドラ「風、薫る」の主人公たちは、トレインドナース(現在の看護師のこと)となることを目指して梅岡女学校付属看護婦養成所に入学します。
その梅岡女学校付属看護婦養成所の母体となる学校が、梅岡女学校です。この梅岡女学校こそが、女子学院の前身となった学校の1つである桜井女学校のモデルであると考えられます。
登場人物との関連
「風、薫る」の主人公である、一ノ瀬りん(見上愛)と大家直美(上坂樹里)は、第5週(2026年4月27日-5月1日放送予定)から梅岡女学校付属看護婦養成所で学ぶことになり、第12週(2026年6月15日-6月19日放送予定)の途中で同校を卒業することになります。
さらに、NHK公式による公式のあらすじは発表されていませんが、その一ノ瀬りんの娘で長女の一ノ瀬環が梅岡女学校に進学する可能性があります。
一ノ瀬環のモデルは、りんのモデルである大関和さんの長女・大関心さんであると考えられます。実在した大関心さんは女子学院を卒業した史実があるからです。
よくある疑問(Q&A)
女子学院はドラマの学校?
女子学院(東京都千代田区)は、朝ドラ「風、薫る」に登場する梅岡女学校のモデルと考えられる桜井女学校を、前身の1つとしています。
モデルは完全一致している?
女子学院そのものが、風、薫るの主人公が通う看護学校のモデルというわけではないでしょう。
「女子学院は風、薫るの主人公が通う看護学校と関係がある」という表現する方が、より正確であると考えられます。
風、薫るのネタバレ・あらすじを知りたい方へ
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→「風、薫る」の全体あらすじのまとめや前半・ストーリーの流れはどうなる?
風、薫る 女子学院とは? 関連記事と参考文献
風、薫る 女子学院とは? 関連記事
「風、薫る」の主人公・一ノ瀬りんの一人娘・環のモデルと考えられる大関心さんは、1890(明治23)年に合併してできた女子学院を卒業しています。
その一ノ瀬環や大関心さんについては下記の記事が参考になるでしょう。
→ 風、薫る 一ノ瀬環とは?
→ 大関和さんの長女・大関心さんとは?
風、薫る 女子学院とは? 参考文献
なお今回の記事を作成するにあたって、下記の4冊の文献を参考にしています。これらのうち「明治のナイチンゲール 大関和物語」はNHKの朝ドラ「風、薫る」の原案となっている本です。
- 田中ひかる 「明治のナイチンゲール 大関和物語」中央公論新社
- 亀山美知子 「大風のように生きて: 日本最初の看護婦大関和物語」 ドメス出版
- 亀山美知子 「女たちの約束: M.T.ツル-と日本最初の看護婦学校」ドメス出版
- 三浦綾子 われ弱ければ(小学館文庫) (小学館文庫 R み- 1-4)
