結論:女子学院と風、薫るの関係
東京都千代田区で女子学院中学校・高等学校を経営する「学校法人 女子学院」は、前身となった学校の1つに明治時代初期に設立された桜井女学校があります。
この桜井女学校は付属の学校として桜井女学校附属看護婦養成所という看護学校を有していました。
この看護学校は朝ドラ「風、薫る」の主人公モデルとなった大関和さんと鈴木雅さんが、トレインドナースとなるために卒業した看護学校です。
桜井女学校とは何か
明治初期に設立された女子のための中等教育機関
桜井女学校とは1876(明治9)年に桜井ちかが校主として、東京・麹町区(現在の東京都千代田区)に設立した女学校です。
1881(明治14)年に桜井ちかが函館へ転居するに伴い、学校の経営権はアメリカ人宣教師のマリア・T・ツルー(「風、薫る」のメアリーのモデル)に移り、校長代理として矢嶋楫子(「風、薫る」の梶原敏子のモデル)が就任しました。
看護教育との関係
桜井女学校の経営者であったツルーは、当初女学校とは別に新しく看護学校を設立するつもりでした。しかし医療宣教師であったJ・C・ヘボン(Hepburan, J. C.)から看護学校設立の賛同を得ることができません。
そのためツルーは自分が経営する桜井女学校に付属する形で看護学校を始めることを思い立ちます。こうした経緯があって桜井女学校も、黎明期にあった日本の看護教育に関わることになったのです。
桜井女学校附属看護婦養成所とは
設立の背景と目的
桜井女学校附属看護婦養成所が開設について、当時日本にいたアメリカ人宣教師たち全員が賛同していたわけではありませんでした。
日本で看護婦の必要性を痛感した宣教師のジョン・C・バラ(Ballagh, John. C.)の妻リディア(Lydia E.)は、休暇で帰国中に看護婦学校建設のための寄附金集めに奔走したが、一八八三年末、フィラデルフィアで客死したのだった。リディアの遺志を知ったツルーは、すでに日本の看護婦学校設立に賛同していたフィラデルフィア女性外国伝道協会と、ニューヨーク女性伝道協会の二つの団体から寄せられた資金を日本に持ち帰り、所属ミッションの常任委員会の同意を得るための努力を続けた。しかしJ・C・ヘボン(Hepburan, J. C.)らの執拗な反対の中で、ついに非公式のまま、ツルーの経営する桜井女学校の中に小さな看護学校を開設することにした(『女たちの約束 M・T・ツルーと日本最初の看護婦学校』以下、『女たちの約束』六一〜一一九頁)。
そのためツルーは「非公式」で看護学校を始めることを決意。最初に教える看護学生の数は少なくとも、いずれその最初の学生たちが「最初の種」となり、日本中に看護婦が増えれば良いと考えていたようです。
実際に入学した学生の数は、大関和さん・鈴木雅さん・桜川里以(「風、薫る」の玉田多江のモデル)など7~8名と少人数でした。
「ナイチンゲール方式看護」との関係
桜井女学校附属看護婦養成所の特徴は何と言っても「ナイチンゲール方式」の看護教育がなされていたことです。
「ナイチンゲール方式」の看護教育とはフローレンス・ナイチンゲールが確立した近代看護の基礎となる実践重視の教育システムのことです。その要点は以下の3つです。
- 病院での実地訓練(実習中心)
- 生活態度・礼儀の教育(規律と人格の重視)
- 衛生・環境の重視(科学的看護)
これらは全て1880年代当時の日本における看護にはない最新的な考え方でした。
そのため桜井女学校附属看護婦養成所は「ナイチンゲール方式」の看護教育を実践するために、看護学の教授として、スコットランドの看護学校を卒業したアグネス・ヴェッチ(「風、薫る」のバーンズのモデル)を招聘することになります。
女子学院誕生までの流れ
桜井女学校と新栄女学校の合併
女子学院はその前身となる女学校が複数存在します。しかし女子学院という女学校が誕生するきっかけとなったのは、それまで存在していた桜井女学校と新栄女学校が合併したことにあります。
女子学院への改称と発展
1890(明治23)年9月9日、桜井女学校と新栄女学校が合併した女学校が誕生し、校名を女子学院とします。
女子学院はミッションスクールであるため、経営者のマリア・T・ツルーは高田女学校・宇都宮女学校・女子独立学校など、女子学院の姉妹校にあたる女学校の設立に関わるようになります。
矢嶋楫子とは何者か?
女子学院初代院長としての役割
1890(明治23)年9月9日に女子学院が誕生した際、初代院長として矢嶋楫子が就任しました。この後、矢嶋楫子は1913(大正3)年まで女子学院の院長を務めることになります。
日本の女子教育への影響
矢嶋楫子は女子学院の院長として学校の校則を撤廃したり、生徒の試験でも監督者を置かないなどかなりユニークな取り組みを行ったことで知られています。
矢嶋楫子の伝記小説である「われ弱ければ」によると、こうした取り組みは当時の日本における女子教育に大きな波紋を及ぼしたと言及されています。
なぜ女子学院は「自由」な校風なのか?
女子学院の「自由」とは「聖書でもって身を修める」という意味
一般的に現在の女子学院中学校・高等学校は自由な校風で知られています。
ただしここでいう「自由」とは初代院長・矢嶋楫子は校則ではなく聖書でもって身を修めよという教育理念に基づくものです。
矢嶋楫子が説いた自由とは: 聖書の教え
なぜ矢嶋楫子が、他の女学校で見られるような校則ではなく、聖書でもって身を修めるよう生徒や学生たちに訓辞していたかについては、矢嶋楫子の人生について説明した記事が参考になるでしょう。
→ 風、薫る 梶原敏子 モデル 矢嶋楫子とは?
大関和・鈴木雅との関係
看護婦養成所との関係性
1887年1月に桜井女学校附属看護婦養成所が開校されるとともに、一期生として「風、薫る」のりんのモデルである大関和さんと、同じく直美のモデルである鈴木雅さんが入学しています。
史実において2人はともに1888(明治21)年10月26日に同校を卒業し、看護婦の資格を得ました。
ドラマとの対応関係
「風、薫る」の梅岡女学校付属看護婦養成所は、第12週で学校自体が閉鎖されるという設定です。
この設定は、実在した桜井女学校附属看護婦養成所が存続した期間が約1年10ヶ月で、大関和さん・鈴木雅さんら一期生を輩出したのちに閉鎖されてしまったという史実を参考にもとづていると考えられます。
梅岡女学校付属看護婦養成所との関係
ドラマ設定との対応
NHKの朝ドラ「風、薫る」では第5週から第12週にかけて、ドラマの重要な舞台の1つとして、梅岡女学校付属看護婦養成所が描かれます。
この梅岡女学校付属看護婦養成所こそが1887(明治20)年1月から1888(明治21)年10月まで存在した、桜井女学校附属看護婦養成所がモデルとなっていると考えられます。
梅岡女学校付属看護婦養成所記事へのリンク
「風、薫る」の梅岡女学校付属看護婦養成所とはどんな看護学校なのか、ドラマ上の設定などを詳しく知りたい方は下記の記事が参考になるでしょう。
→ 風、薫る 梅岡女学校付属看護婦養成所とは?
まとめ
女子学院の歴史とドラマとの関係
現在の女子学院中学校・高等学校を経営する「学校法人 女子学院」の名称は1890(明治23)年9月9日に桜井女学校と新栄女学校が合併して誕生。
桜井女学校は桜井女学校附属看護婦養成所の母体となった学校で、この看護学校が朝ドラ「風、薫る」に登場する梅岡女学校付属看護婦養成所のモデルとなっています。
モデル理解のポイント
現在の女子学院がそのまま「風、薫る」の梅岡女学校付属看護婦養成所のモデルとなっているわけではないことに注意が必要です。
風、薫るのネタバレ・あらすじを知りたい方へ
最終回までのネタバレはこちら
→ 1分で分かる「風、薫る」のネタバレ・最終回・登場人物の結末
全話あらすじはこちら
→「風、薫る」の全体あらすじのまとめや前半・ストーリーの流れはどうなる?
風、薫る 女子学院とは? 関連記事と参考文献
風、薫る 女子学院とは? 関連記事
「風、薫る」の主人公・一ノ瀬りんの一人娘・環のモデルと考えられる大関心さんは、1890(明治23)年に合併してできた女子学院を卒業しています。
その一ノ瀬環や大関心さんについては下記の記事が参考になるでしょう。
→ 風、薫る 一ノ瀬環とは?
→ 大関和さんの長女・大関心さんとは?
風、薫る 女子学院とは? 参考文献
なお今回の記事を作成するにあたって、下記の4冊の文献を参考にしています。これらのうち「明治のナイチンゲール 大関和物語」はNHKの朝ドラ「風、薫る」の原案となっている本です。
