結論:大家直美のモデルは鈴木雅
鈴木雅は明治時代の看護師だった
大家直美のモデルは、明治時代の看護婦・鈴木雅(すずきまさ)です。
NHKの朝ドラ「風、薫る」のもう1人の主人公・大家直美は、実在した鈴木雅(1857〜1940年)をモデルとしています。
鈴木雅とはどんな人物か
鈴木雅は何をした人か?
鈴木雅は正規の教育・訓練を受けた看護婦として、1891(明治24)年に日本で最初の個人経営の派出看護婦会である「慈善看護婦会」を設立しました。
なぜ鈴木雅は重要なのか?
「慈善看護婦会」は上流階級だけではなく、中所得層から貧困層に至るまで看護サービスを提供することを目的としていました。つまり鈴木雅さんは、明治時代の日本において看護婦の認知度を高めることに貢献したと言えます。
大家直美と鈴木雅の関係(ドラマと史実の違い)
鈴木雅は「孤児」ではなかった
「風、薫る」の大家直美は生まれつき親がおらず、牧師の吉江善作(モデルは植村正久)に引き取られた孤児という設定です。
しかしモデルとなった鈴木雅さんは孤児ではありません。旧姓は「加藤」を名乗っており、父は静岡藩士の加藤信盛で、母はその妻・加藤トヨという人物です。
また鈴木雅さんは1880(明治13)年ごろに陸軍少佐・鈴木良文と結婚する前に、フェリス・セミナリー(現在のフェリス女学院)と日本婦女英学校(現在の横浜共立学園)の2つの女学校に通っていました。
こうした経歴を見ると、鈴木雅さんは孤児ではなかったことが分かるでしょう。
鈴木雅の英語は女学校でマスターした
また「風、薫る」の大家直美は、すでに第1週から日常会話レベルの英会話はできる語学力に到達しています。
これは孤児として教会に引き取られ、宣教師のメアリー(マリア・T・ツルーがモデル)によって教えてもらったという設定に基づくものでしょう。
一方、モデルの鈴木雅さんも後述する看護学校において、看護学を教えるスコットランド人教授の通訳を務めるほど英語に精通していました。
こうした鈴木雅さんの卓越した英語の語学力は、フェリス・セミナリーと日本婦女英学校で受けた英語教育の賜物であると考えられます。
鈴木雅の性格は擦れていなかったのではないか
さらに「風、薫る」の大家直美は孤児として育っており、「目的のためには多少のウソやズルは構わないと考えている」というスレた考えの持ち主として設定されています。
一方、鈴木雅さんの性格そのものについて語る資料は多く見当たりません。ただ父親は元・武士で、明治時代初期の女性にしては珍しく2つの学校で中等教育を受けていた史実があります。
それらのことを踏まえると、鈴木雅さんは大家直美のような「スレた性格」というよりも、「お嬢様的な素直な性格」の持ち主だったのではないかと想像します。
鈴木雅の生涯と年表
鈴木雅のプロフィール
鈴木雅(1857~1940年)さんは1857(安政4)年に静岡藩士の加藤信盛・トヨ夫妻の長女として誕生。
フェリス・セミナリーと日本婦女英学校を卒業したのち、陸軍少佐・鈴木良文と1880(明治13)年ごろに結婚。1883(明治17)年に夫が西南戦争で負った戦傷がもとで亡くなったのち、1887(明治19)年1月に「桜井女学校附属看護婦養成所」に入学。
翌1880(明治21)年10月に同校を卒業すると、帝国大学医科大学第一医院(現在の東京大学医学部附属病院)に内科の看病婦取締に就任。その後、同病院を退職し、1891(明治24)年に日本で最初の個人経営の派出看護婦会である「慈善看護婦会」を設立。
1893(明治26)年に会の名称を「東京看護婦会」と改め、1901(明治34)年には会の経営を大関和さんに引き継ぎました。
鈴木雅の年表
そんな鈴木雅さんが江戸時代に生まれ、1940(昭和15)年に82才で亡くなるまでに歩んだ人生を年表にすると、以下の通りになります。
| 西暦(和暦) | 年齢 | できごと |
|---|---|---|
| 1857(安政4) 年 | 0才 | 加藤信盛・トヨ夫妻の長女として静岡で誕生 |
| 1877(明治10)年 | 20才 | 日本婦女英学校(現在の横浜共立学園)に入学 |
| 1880(明治13)年 | 23才 | 鈴木良文陸軍少佐と結婚 |
| 1883(明治16)年 | 26才 | 夫・鈴木良文が西南戦争で受けた銃創のために亡くなる |
| 1887(明治20)年 | 30才 | 1月に桜井女学校(現・女子学院)内の桜井看護学校に入学し大関和と出会う。 |
| 1888(明治21)年 | 31才 | 10月に桜井看護学校を卒業。トレインドナースとして帝国大学医科大学第一医院内科看病婦取締となる |
| 1891(明治24)年 | 34才 | 第一医院を退職。アメリカで看護学を学ぶために留学を決意するも中止。派出看護婦会の「慈善看護婦会」を設立 |
| 1893(明治26)年 | 36才 | 「慈善看護婦会」の名称を「東京看護婦会」に改める |
| 1896(明治29)年 | 39才 | 大関和を「東京看護婦会」付属の「東京看護婦講習所」に講師として招聘 |
| 1901(明治34)年 | 44才 | 「東京看護婦会」の経営を大関和に引き継ぎ、息子・良一とともに隠居暮らしを始める |
| 1922(大正11)年 | 65才 | 東京・小石川から京都・稲荷山に転居。大関和と今生の別れ |
| 1926(大正15/昭和元)年 | 66才 | 沼津に転居 |
| 1938(昭和13)年 | 81才 | 長男・良一が死去 |
| 1940(昭和15)年 | 82才 | 死去 |
大関和との関係(バディ関係)
同じ看護学校の同期生
朝ドラ「風、薫る」は主人公・一ノ瀬りん(大関和さんのモデル)と大家直美による「バディドラマ」であると発表されています。
実在した鈴木雅も、大関和さんとは「バディ」や「盟友」の関係であったと言っても過言ではないでしょう。
そんな2人の関係がスタートしたのが、1887(明治20)年1月です。ともにトレインドナースとなることを目指して、マリア・T・ツルーが経営する「桜井女学校附属看護婦養成所(「風、薫る」の梅岡看護婦養成所のモデルとなった学校)」に入学し。同期の看護学生となったことが「バディ関係」の始まりでした。
看護学校卒業後は同じ大学病院で勤務
鈴木雅さんも大関和さんもともに1888(明治21)年10月26日に「桜井女学校附属看護婦養成所」を卒業。
卒業後の2人は帝国大学医科大学第一医院の看病婦取締(現在の看護師長の職に相当)として採用されます。このとき鈴木雅さんの担当は内科で、大関和さんの担当は外科でした。
派出看護婦会に大関和を招聘
1890(明治23)年9月に大関和さんが帝大医院を退職し、翌年の1891(明治24)年1月に鈴木雅さんも退職。
大関和さんは仕事を求めて新潟県の高田(現在の上越市)に赴くことになりますが、鈴木雅さんは東京に留まって「慈善看護婦会(のちに「東京看護婦会」と改称)」を設立。
2人は別々の道を歩むように見えましたが、1896(明治29)年に鈴木雅さんは、大関和さんを「東京看護婦会」に付属する看護学校である「東京看護婦講習所」に講師として招聘。
2人は再び「バディ」として派出看護婦会の運営にあたることになります。
派出看護婦会を大関和に引き継ぐ
「東京看護婦会」は鈴木雅さんが会頭で、大関和さんがその補佐をするという体裁で運営されていましたが、次第に会の内部は「大関派」と「反大関派」という2つの派閥に分裂し始めました。
大関和さんは敬虔なクリスチャンであり、派出看護の中にキリスト教が説く「奉仕の精神」を色濃く反映させようとしたためです。
このため「東京看護婦会」の内部では大関和さんの考え方に共鳴・傾倒する看護婦たちが出る一方、必ずしもそうではない看護婦たちの間で意見の食い違いが目立つようになりました。
会を分裂させてしまったことの責任を取って、大関和さんは箱根湯本の温泉宿に引き篭もってしまいますが、会頭である鈴木雅さんはあえて大関和さんを東京に呼び戻します。そして会の経営権を全て大関和さんに譲渡することを決定。
その後、1922(大正11)年に鈴木雅さんが東京から京都の稲荷山に引っ越しをするまでの間、大関和さんが持ち込む相談事には応じるものの、「東京看護婦会」の経営は大関和さんに任せることになりました。
鈴木雅の功績
アグネス・ヴェッチの通訳
「風、薫る」の大家直美のモデルである鈴木雅さんは、黎明期にあった日本の近代看護にいくつかの貢献していますが、その1つが、スコットラン人であるアグネス・ベッチの通訳のつとめていたことです。
アグネス・ベッチとは、「風、薫る」の第6週から登場するバーンズのモデルです。実在したアグネス・ベッチはナイチンゲール方式の看護学校を卒業したスコットラン人で、桜井女学校附属看護婦養成所で看護学の教授を担当していました。
アグネス・ベッチは兼任で帝大医院の「お雇い外国人」として看護学を教えるほどの優れた人材でしたが、複雑な日本語を話すことはできません。
そこでアグネス・ベッチの通訳をしていたのが、鈴木雅さんです。
黎明期にあった日本の近代看護は、看護学の教科書やその教授方について、輸入品や外国人に頼らざるを得ませんでした。
そうした状況でアグネス・ベッチが学生たちに語りかける言葉と、鈴木雅さんが翻訳する日本語は、そのまま日本の近代看護の礎となったのです。
個人経営の派出看護婦会の設立
鈴木雅さんは1891(明治24)年11月に東京の本郷森川町において「慈善看護婦会」を設立。日本で最初に設立された個人経営の派出看護婦会でした。
当時、派出看護のサービスは、政府高官や華族などの上流階級の間では普及していましたが、中所得層以下のいわゆる「一般大衆」にはほとんど普及していませんでした。
鈴木雅さんが設立した「慈善看護婦会」は、当時の日本では未開拓の状態となっていた庶民をターゲットとした派出看護をすることを狙いとして、1日の看護料や看護婦の休憩時間を設定。
さらに会の名称に「慈善」という文字が含まれていることから、会則には看護料が払えない貧困者には無料で看護を行うことも含まれていました。
新しい看護学校の設立に尽力
英語通訳と派出看護婦会の設立以外にも、鈴木雅さんには、新しい看護学校を設立するために募金活動に従事したという功績も残されています。
実は鈴木雅さんや大関和さんが卒業した「桜井女学校附属看護婦養成所」は、彼女たち一期生が卒業したのち、すぐに閉鎖されました。同校には学生たちの看護実習を受け入れることができる附属の病院を持たなかったためです。
そこで「桜井女学校附属看護婦養成所」の経営者だった、マリア・T・ツルーはすぐに病院施設を持った看護学校の設立を模索。
そうした施設の設立には多額の資金が必要となりますが、鈴木雅さんはその資金集めを目的とした発起委員会のメンバーとして名を連ね、募金活動に従事していました。
鈴木雅のまとめ
鈴木雅を一言で表すと…
鈴木雅さんは、日本の近代看護史において専門用語の翻訳・派出看護婦会の設立・看護学校設立のための資金集めなどに尽力した女性です。
風、薫る 全話あらすじと最終回までのネタバレ
風、薫る 全話あらすじ
朝ドラ「風、薫る」のあらすじ全話まとめ・登場人物とキャスト・モデル人物・相関図を知りたい方は、下記の記事が参考になるでしょう。
風、薫る 最終回までのネタバレ
また「風、薫る」の最終回までのネタバレ・史実解説・家系図・結末などを知りたい方は下記の記事を参考にしてください。
大家直美のモデルは誰 関連記事と参考文献
大家直美のモデルは誰 関連記事
朝ドラ「風、薫る」の主人公の1人・一ノ瀬りんのモデルで、鈴木雅さんのバディである大関和さんが、どんな人物っだったかについては下記の記事で詳しく紹介しています。
また大家直美のモデルとなった鈴木雅さんのことをさらに理解するためには、明治時代の看護界で使われた特徴的な用語である、「トレインドナース」・「派出看護婦」・「派出看護婦会」といった言葉を理解することをお勧めします。
それぞれの用語の意味や歴史的背景などについて下記の記事で分かりやすく説明しています。
大家直美のモデルは誰 参考文献
朝ドラ「風、薫る」の大家直美のモデルとなった大関和さんについて説明する記事を書くために参考とした文献は以下の通りです。
- 田中ひかる 明治のナイチンゲール 大関和物語 (中公文庫)
- 亀山美知子 大風のように生きて: 日本最初の看護婦大関和物語 ドメス出版
- 亀山美知子 「女たちの約束: M.T.ツル-と日本最初の看護婦学校」ドメス出版
- 宮田茂子 《新装版》「大関和」を通して見た日本の近代看護【真説】国家的セクハラを受けた職業集団 星湖舎
- 吉瀬智子 連続テレビ小説 風、薫る Part1 NHKドラマ・ガイド NHK出版
