梅岡女学校付属看護婦養成所とは、朝ドラ「風、薫る」に登場する看護学校で、主人公たちがトレインドナースを目指して学ぶ重要な舞台です。
「梅岡看護婦養成所との違いは?」「モデルは実在する?」「なぜ短期間で閉校したのか?」と疑問に思っている方も多いのではないでしょうか。
本記事では、ドラマでの役割から史実モデル、閉校理由までを整理し、初めての方でも分かるように解説します。
▼ 梅岡女学校付属看護婦養成所の要点(30秒で分かる)
朝ドラ「風、薫る」に登場する看護学校
正式名称:梅岡女学校付属看護婦養成所
略称:梅岡看護婦養成所
モデル:桜井女学校附属看護婦養成所(1887年1月から1888年10月26日まで)
閉校理由:実習病院を持たなかったため
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結論:梅岡女学校付属看護婦養成所とは何か?
- 梅岡女学校付属看護婦養成所とは朝ドラ「風、薫る」に登場する看護学校のことです。正式名称にすると長いため「梅岡看護婦養成所」と呼ばれることがあります。
- 梅岡女学校付属看護婦養成所(梅岡看護婦養成所)のモデルとなった学校は、1887(明治20)年1月から1888(明治21)年10月26日まで東京・麹町区(現在の東京都千代田区)に実在した桜井女学校附属看護婦養成所です。
- 桜井女学校附属看護婦養成所は、開校したのち1年10ヶ月で閉校しました。短期間で閉校した主な理由は、看護実習先となる病院を持たなかったためです。
梅岡看護婦養成所とは?(検索ユーザー向けの結論)
梅岡看護婦養成所とは何か(簡単に解説)
梅岡看護婦養成所とは、朝ドラ「風、薫る」に登場する看護学校のことです。主人公の一ノ瀬りんや大家直美らが、トレインドナース(現在の看護師)になるために学ぶ教育機関として描かれています。
正式名称は「梅岡女学校付属看護婦養成所」であり、視聴者や検索ユーザーの間では、略称として「梅岡看護婦養成所」と呼ばれることもあります。
モデル・史実・閉校理由のポイント
この梅岡看護婦養成所には、明治時代に実在した看護学校がモデルとなっています。それが1887年から1888年にかけて東京に存在した桜井女学校附属看護婦養成所です。
この学校は、日本初期の看護教育を担った重要な存在でしたが、看護実習を行うための病院を持たなかったことなどが理由で、約1年10ヶ月という短期間で閉校しました。
ドラマではこの史実をベースにしつつ、帝都医科大学附属病院の方針変更によって閉鎖されるという形に設定がアレンジされています。
梅岡女学校付属看護婦養成所とは?(ドラマでの役割)
りん・直美が入学する看護学校
朝ドラ「風、薫る」に登場する梅岡女学校付属看護婦養成所とは、りん・直美・多江ら7人の看護学生がトレインドナース(現在の看護師のこと)になるために入学する看護学校のことです。
梅岡女学校との関係(付属機関)
梅岡女学校付属看護婦養成所という名前が示す通り、この看護学校の母体となる学校は梅岡女学校です。そのため梅岡女学校の校長と梅岡女学校付属看護婦養成所の所長は同一人物で、梶原敏子という女性が担っています。
第5週〜第12週の舞台
「風、薫る」の第5週から第12週の途中まで、主に主人公であるりんと直美の看護学生としての学生生活が描かれ、これからの飛躍を予感させるパートです。
その中で梅岡女学校付属看護婦養成所は、登場人物たちの衝突や成長が描かれる、物語の重要な舞台として描かれます。
梅岡看護婦養成所との違いとは(名称整理)
正式名称と略称の違い
朝ドラ「風、薫る」のドラマ世界の中では、正式名称梅岡女学校付属看護婦養成所も、略称の梅岡看護婦養成所も同一の存在で、主人公たちが通う同じ看護学校です。
なぜ呼び方が複数あるのか?
ただ、前者の正式名称は明らかに長いと言えるでしょう。「風、薫る」の視聴者の一部では「梅岡看護婦養成所」と認識されてしまうかもしれません。
検索で混同される理由
「名前が長い」と感じる認識は、Google検索をするユーザーにも反映されるかもしれません。そうすると一部のユーザーは「梅岡女学校付属看護婦養成所」ではなく「梅岡看護婦養成所」と検索して、詳細を調べる可能性もあるでしょう。
モデルとなった桜井女学校附属看護婦養成所とは
設立背景と目的
梅岡女学校付属看護婦養成所のモデルは、1887(明治20)年1月から1888(明治21)年10月26日まで東京・麹町区(現在の東京都千代田区)に実在した桜井女学校附属看護婦養成所です。
アメリカ人宣教師で、桜井女学校の経営者でもあるマリア・T・ツルー(「風、薫る」のメアリー)は日本でも女性の看護人が必要であると考え、自身が経営している桜井女学校の敷地内で看護学校が始めることになりました。
開校から閉校まで(1887〜1888年)
桜井女学校附属看護婦養成所は1887(明治20)年1月に大関和さん(りんのモデル)・鈴木雅(直美のモデル)さん・桜川里以(多江のモデル)など7~8名の一期生をもって開校。
この一期生たちが同校を修了したのは、1888(明治21)年10月26日で、看護課程を修了できたのは6名の学生で、一期生の修了をもって閉校しました
日本初期看護教育の位置づけ
日本の近代看護史にとって、1888(明治21)年とは特別な意味を持つ年です。なぜなら日本では1888年に初めてトレインドナース、つまり現在の看護師の資格を持つ人間を輩出したからです。
日本の最初期にあった看護学校は、桜井女学校附属看護婦養成所を含めて、東京と京都において、合計で4校あったと言われています。
- 有志共立東京病院看護婦教育所
- 帝国大学医科大学附属第一医院看病法講習科
- 同志社病院京都看病婦学校
- 桜井女学校附属看護婦養成所
これらの4校が1888年に看護学生を正式な資格を持つ看護婦として輩出したのです。
ちなみにこれら4校のうち、1. 有志共立東京病院看護婦教育所は現在、東京都港区西新橋3丁目で運営されている、慈恵看護専門学校に直接つながります。
なぜ短期間で閉校したのか(内部要因)
病院を持たなかった構造的問題
桜井女学校附属看護婦養成所は、開校後、約1年10ヶ月で閉校するに至ります。学校の存続期間としては短期間しか存在しなかったと言えるでしょう。
桜井女学校附属看護婦養成所が短期間のうちに閉校してしまった主な理由は、同校が看護学生たちの看護実習を受け入れてくれる病院施設を持たなかったためです。
マリア・T・ツルーの資金調達失敗
桜井女学校附属看護婦養成所の経営者である、マリア・T・ツルーは、自身がキリスト教の牧師として所属するアメリカ長老教会などから病院建設のための資金を得る前提で看護学校が開校しました。
ところが医療宣教師であるJ・C・ヘボンなど、在日する宣教師たちの反対もあり、本国から病院建設に必要な資金は得られません。
アグネス・ヴェッチによる実習の成立
このように桜井女学校附属看護婦養成所は、開校当初から看護学生たちの看護実習を受け入れてくれる病院探しに難航することが予想されていました。
では、大関和さん・鈴木雅さん・桜井里以らは、どうやって看護実習を行なっていたのでしょうか?
実は、桜井女学校附属看護婦養成所に看護学の教授のために赴任したアグネス・ヴェッチ(「風、薫る」のバーンズのモデル)が、実習先の病院を紹介してくれたのです。
実はアグネス・ヴェッチは同校の教授だけでなく、帝国大学医科大学附属第一医院(現在の東京大学医学部附属病院)の「お雇い外国人」として同医院の看病法講習科で看護学の教授も兼任していました。
桜井女学校附属看護婦養成所に看護実習をするための病院がないことを知ったアグネス・ヴェッチは、帝国大学医科大学附属第一医院で同校の看護学生たちも看護実習をできるよう便宜を図ってくれたのです。
アグネス・ヴェッチの契約終了に伴う実習崩壊
ただアグネス・ヴェッチの帝大医院における「お雇い外国人」としての契約期間は1年間です(1887年10月27日から1888年10月26日まで)。
その契約期間が終了し、ヴェッチが故郷・スコットランドに帰国すると、桜井女学校附属看護婦養成所は、再び看護実習の病院を持たない看護学校となってしまいました。
同時期の看護学校との違い(外部要因)
病院付属だった他の3つの看護学校
ちなみに桜井女学校附属看護婦養成所と同時期に存在した他の3つの看護学校を見ると、その名称から分かるようにいずれも病院施設が付属しています。
- 有志共立東京病院看護婦教育所
- 帝国大学医科大学附属第一医院看病法講習科
- 同志社病院京都看病婦学校 H3 なぜ病院付属が必要だったのか?
「看護実習先の病院がなければ受け入れてもらえる病院を探せばいいのでは?」と思われるかもしれません。
ヴェッチの帰国後、桜井女学校附属看護婦養成所が新たな看護実習先を探さなかった理由は、日本の近代看護について詳述する「大風のように生きて: 日本最初の看護婦大関和物語」や、「女たちの約束: M.T.ツル-と日本最初の看護婦学校」において記されていません。
ただ当時の日本において、現在の看護師にあたる職業は主に「看護婦」ではなく、「看病婦」と呼ばれ賤業とされていました。現代とは違って、看護師の職業に対する理解が、極めて低かったことから、看護婦育成に理解してくれる病院はかなり限られていたと推測されます。
桜井女学校附属看護婦養成所の弱点
加えて桜井女学校附属看護婦養成所は、その名の通り、桜井女学校の付属学校です。桜井女学校はミッションスクールであり、アメリカのキリスト教団体からの資金援助を得て運営されていました。
つまり資金の提供元であるアメリカのキリスト教団体が、「東京の桜井女学校附属看護婦養成所は閉鎖せよ」と言ってしまえば、経営者のマリア・T・ツルーはその決定に従わざるを得ないのです。
ちなみにツルーはこの本国からの決定を良しとしませんでした。桜井女学校附属看護婦養成所が閉鎖されたのち、桜井女学校の付属学校としてではなく、新しい形での看護学校設立を模索し始めます。
桜井女学校と女子学院の関係
桜井女学校の概要
桜井女学校は1876(明治9)年、東京・麹町区(現在の東京都千代田区)で、桜井ちかが校主(校長)として設立された女学校です。
開校してしばらくすると、経営状態が苦しくなり、アメリカの長老教会などアメリカのキリスト教団体から若干の資金援助を得て運営されるようになります。
女子学院への発展
桜井ちかが夫とともに東京から函館に転居することになります。そこで桜井ちかに代わり、1881(明治14)年、それまで新栄女学校の経営をしていたマリア・T・ツルーが桜井女学校の経営にも携わるようになります。
このとき新栄女学校で校長をしていた矢嶋楫子(「風、薫る」の梶原敏子のモデル)が、桜井女学校の「校長代理」に転任します(名目上の校長は桜井ちかのままだった)。
1890(明治23)年9月9日、桜井女学校と新栄女学校が合併することになり、新しく女子学院という名前の女学校が誕生。
このとき女子学院の初代院長として矢嶋楫子が就任。矢嶋楫子は1913(大正3)年に名誉院長に退くまで、女子学院の院長として学生たちの指導に当たりました。
なおこの女子学院こそが、現在、東京都千代田区一番町で女子学院中学校・高等学校を経営する「学校法人 女子学院」の系譜を引いています。
看護学校との非直結性(重要)
インターネット上では、一部において「朝ドラの風、薫るで登場する看護学校のモデルは現在の女子学院のことではないか」という情報を見かけます。
しかし、この表現は必ずしも正確ではありません。ドラマ内での学校と実在した学校の関係は、これまで説明した通り、
- 「風、薫る」梅岡女学校付属看護婦養成所のモデル → 桜井女学校附属看護婦養成所(1888年10月26日付で閉校)
- 「風、薫る」梅岡女学校のモデル → 桜井女学校(1890年に新栄女学校と合併して女子学院に改組)
という関係になります。
従って「風、薫る」の」梅岡女学校付属看護婦養成所と、現在の女子学院との間に関係がないことはありませんが、「直結している」と説明するのは、少し拙速な説明と言えるでしょう。
看護学校の閉鎖: 史実とドラマとの違い
史実:実習環境の崩壊
実在した桜井女学校附属看護婦養成所は1888(明治21)年10月26日に閉鎖されます。理由は同校が看護実習を行うための病院施設を持たなかったためです。
加えて経営者のマリア・T・ツルーが病院建設のための資金援助が得られなかったことも理由として挙げられます。
ドラマ:帝都医科大学附属病院の方針転換
朝ドラ「風、薫る」の梅岡女学校付属看護婦養成所も第12週において閉鎖されます。
ただドラマ内での梅岡女学校付属看護婦養成所が閉鎖される理由は、これまで看護実習を受け入れてくれた帝都医科大学附属病院の都合によるものです。
帝都医科大学附属病院はトレインドナース(正規に教育・訓練された看護婦のこと)の有用性を認めて、自前で看護婦を育成することを経営の方針とします。
なぜ設定が変更されたのか
このように史実の看護学校とドラマの看護学校との間では、学校が閉鎖される理由が異なります。
「閉校の理由」が変更された理由は、この記事を公開した日付において、NHKは公式に発表していないため、分かりません。
ただ実在した桜井女学校附属看護婦養成所は1888(明治21)年10月26日に閉鎖された理由を、そのままドラマの設定とするには、話が少々複雑なような気がします。
おそらく「帝都医科大学附属病院の勝手な都合で看護実習を受け入れてもらえなくなった」とする方が、「風、薫る」の視聴者にとって分かりやすくなるため、設定を変更したのかもしれません。
梅岡女学校との違い
女学校と看護学校の役割の違い
「風、薫る」の梅岡女学校と梅岡女学校附属看護婦養成所は、目的が異なる学校です。梅岡女学校は女子のための中等教育を目的として学校であり、と梅岡女学校附属看護婦養成所は、看護婦の養成を目的とした看護学校です。
ドラマ内での位置づけ
梅岡女学校附属看護婦養成所はその名が示す通り、梅岡女学校に付属する学校です。そのため梅岡女学校の敷地内に梅岡女学校附属看護婦養成所があるという設定です。
さらに「風、薫る」の主人公である一ノ瀬りんは梅岡女学校附属看護婦養成所の看護学生ですが、その娘で長女の一ノ瀬環が梅岡女学校に進学する可能性があります。
ロケ地はどこ?
梅岡女学校と梅岡女学校附属看護婦養成所のロケ地: 茨城県立土浦第一高等学校
梅岡女学校と梅岡女学校付属看護婦養成所のロケ地については、茨城県立土浦第一高等学校(茨城県土浦市真鍋4丁目4-2)の校舎(旧本館)が使用されている可能性が高いとされています。
ロケ地の根拠とする情報
茨城県立土浦第一高等学校が、梅岡女学校と梅岡女学校付属看護婦養成所のロケ地とする根拠は、2026年3月まで同校の校長を務めていた人物による発信などをもとにしています。
ただし、NHKから正式にロケ地として発表されているわけではないため、現時点では有力な撮影場所の一つと考えられます。
ロケ地の特徴と見どころと今後の更新
茨城県立土浦第一高等学校の校舎は、歴史を感じさせる落ち着いた外観が特徴で、明治期の教育機関を舞台とした「風、薫る」の世界観ともよく合致しています。
こうした重厚な建築様式が、看護学校としての厳格な雰囲気や、当時の近代教育の空気感を表現するロケ地として選ばれた可能性があります。
今後の放送で外観や内部の描写が明らかになり次第、ロケ地の詳細や見どころについても追記していきます。
よくある疑問(Q&A)
梅岡女学校付属看護婦養成所は実在する?
いいえ。梅岡女学校付属看護婦養成所は実在しません。
ただし、モデルと考えられる看護学校は存在しました。その学校は桜井女学校附属看護婦養成所で、 1887(明治20)年1月から1888(明治21)年10月26日まで、東京・麹町区(現在の東京都千代田区)に設置されていました。
梅岡看護婦養成所とは同じ?
はい。梅岡看護婦養成所と梅岡女学校付属看護婦養成所は同じ存在であると考えられます。梅岡看護婦養成所は略称で、梅岡女学校付属看護婦養成所が正式名称と言えるでしょう。
なぜ短期間で閉校したの?
実在した桜井女学校附属看護婦養成所が2年弱(正確には1年10ヶ月)で閉校した理由は、主に同校が看護実習を行うための病院に付属していなかったためです。
モデルは女子学院なの?
いいえ。「風、薫る」の梅岡女学校付属看護婦養成所は、現在の女子学院の直接のモデルであるとは言えません。
風、薫るのネタバレ・あらすじを知りたい方へ
最終回までのネタバレはこちら
→ 1分で分かる「風、薫る」のネタバレ・最終回・登場人物の結末
全話あらすじはこちら
→「風、薫る」の全体あらすじのまとめや前半・ストーリーの流れはどうなる?
梅岡女学校付属看護婦養成所とは?梅岡看護婦養成所との違い 関連記事と参考文献
梅岡女学校付属看護婦養成所とは?梅岡看護婦養成所との違い 関連記事
梅岡女学校付属看護婦養成所のモデルで、明治時代に実在した桜井女学校附属看護婦養成所は、アメリカ人宣教師で牧師でもある、桜井女学校を経営していた、マリア・T・ツルーの並々ならぬ信念に基づいて設立されました。
マリア・T・ツルーは、朝ドラ「風、薫る」において主人公の一人である直美を直美を見守るメアリーのモデルとなっていると考えられます。
マリア・T・ツルーの人物像や生涯、また桜井女学校附属看護婦養成所が閉鎖されたのちの動向については下記の記事が参考になるでしょう。
→ メアリーのモデル マリア・T・ツルーの人物像・プロフィール
→ メアリーのモデル マリア・T・ツルー その後の動向や結末
梅岡女学校付属看護婦養成所とは?梅岡看護婦養成所との違い 参考文献
なお今回の記事を作成するにあたって、下記の4冊の文献を参考にしています。これらのうち「明治のナイチンゲール 大関和物語」はNHKの朝ドラ「風、薫る」の原案となっている本です。
