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小泉八雲 父 チャールズ・ブッシュ・ハーン 朝ドラ ばけばけ

koizumiyakumo_chichi
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チャールズ・へルン ローザ・カシマチとの結婚から離婚まで

父 チャールズ・ブッシュ・へルンの履歴

NHKの2025年後期朝ドラ「ばけばけ」ヘブン(トミー・バストウ)のモデルとなっている小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の父親は、チャールズ・ブッシュ・ヘルン(以降はチャールズ・へルン)です。

チャールズ・ブッシュ・へルンはアイルランドの人であり、ギリシャ駐在の歩兵ノッティンガム州第四十五連隊附の軍医(二等軍医正)。この連隊は1846年から1850年頃、イギリスの保護下にあったイオニア諸島のコルフ島(現在はギリシアの地方自治体の1つ)に駐在していました。

なお今回の記事は主に東京帝国大学英文科で小泉八雲に師事した英文学者・田部隆次が1914(大正14)年に記した「小泉八雲 ラフカディオ・へルン」を参考にしています。

ローザ・カシマチとの結婚とラフカディオ・ハーンの誕生

チャールズ・へルンは、そのイオニア列島のどこかで、キシラ島出身のローザ・カシマチという女性と恋に落ち、ローザの親戚から猛烈な反対を押し切って結婚します。

結婚後、2人は男の子を授かりますがすぐに夭逝。しかし2番目の子どもとして、1850(嘉永3)年6月にレフカダ島リュカディアでラフカディオ・ハーンを授かりました。この男の子がのちの小泉八雲です。

その後、チャールズ・へルンは1851年末からのマルタ島勤務を経て、西インド勤務の命を受けます。そのため妻・ローザと息子・ラフカディオの世話を、アイルランドのダブリンにいる弟・リチャード(小泉八雲の叔父)に託します。

チャールズ・ハーンとローザ・カシマチの離婚

1853年10月ごろにチャールズ・へルンは、黄熱病のため西インドからアイルランドに帰還することになりますが、この頃からローザとの仲が怪しくなります。

理由は2つ。ローザとの激情的な恋が冷めてしまったこととと、アイルランドへ帰還する船の中で昔の恋人であったクロフォード夫人(小泉八雲の継母)と再会したためです。

そのうちクリミア戦争(1853年〜1856年)が始まり、チャールズ・へルンも出征することになりますが、ローザと事実上の離婚をします。

この離婚によりチャールズはクロフォード夫人と再婚、ローザはギリシャへ帰り、幼いラフカディオ・ハーンは大叔母のサラ・ブレナンによって養育されることになります。

小泉八雲の結婚観に影響を与えたチャールズ・へルン

小泉八雲の父・チャールズ・ハーンに対する印象

つまり小泉八雲は幼少期に家族の破綻を経験し、父の身勝手な振る舞いを終生忘れることはありませんでした。

小泉八雲・セツ夫妻の長男である小泉一雄が1950(昭和25)年に記した「父小泉八雲」では、八雲は父・チャールズに対してこのような考えを持っていたと述べています。

もし私のあの酷いのパパさん私を訪ねて参りましょうならば、私、左様なら云います。私玄関から「往(い)んでくれ、もう来るなだい」(出雲弁)と叫びましよう。

小泉一雄「父小泉八雲(前篇)」Kindle版 73ページ

このコメントは「へルンさん言葉」と出雲弁が混じっているため、なんとなく親しみがわく述懐です。しかし、もし八雲が自由に話すことができる英語で気持ちを述べていたとすれば、かなり辛辣な表現が使われていたと考えられます。

父の離婚を反面教師とした小泉八雲

小泉八雲は、父・チャールズ・ハーンの母に対する無慈悲で冷酷な態度を自身の「反面教師」とします。

この「反面教師」の姿勢はまだイギリス人としてラフカディオ・ハーンを名乗っていたころ、6人の家族を養っていた小泉セツと1891(明治24)年に結婚したときの行動に表れます。

そもそも八雲とセツの結婚は、八雲がイギリス国籍を捨てて、日本国籍になるという当時の常識からかけ離れた国際結婚でした。

八雲が日本国籍を選んだ理由は、生涯にわたって日本にとどまることや、万一自分が亡くなった場合、自身の財産が妻・子ども・妻の家族に渡ることを表明するためであったと言われています。

小泉八雲と父母

小泉八雲 家系図

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