小泉八雲から「日本第一の友人」と呼ばれた西田千太郎
西田千太郎の逸話・エピソードについて
NHKの朝ドラ「ばけばけ」で錦織友一(吉沢亮)さんが演じる西田千太郎(にしだせんたろう)(1862年〜1897年)に注目が集まっています。
西田千太郎とは、小泉八雲と小泉セツの結婚を仲立ちし、小泉八雲がその著作「東の国から」が1895(明治28)年に完成すると捧呈され、八雲から「日本第一の友人」と呼ばれたほどの人物です。
今回の記事ではそんな西田千太郎の逸話やエピソードを紹介していきます。
西田千太郎の逸話・エピソード 8選
1. 松江藩の足軽身分の生まれだった
西田千太郎は1862(文久2)年、松江藩士・西田半兵衛の長男として誕生。西田家は江戸時代において松江藩の家老・塩見家の家来筋の足軽です。
塩見家と言えば「ばけばけ」に登場する雨清水タエ(北川景子)のモデルとなっている小泉チエの実家です。
つまり西田千太郎と小泉チエは「主君と家来」の関係にあり、しかも明治時代以前においては、千太郎からチエに向かっては顔をまともに見ることができないくらい身分の差がありました。
2. 弟・西田精も優秀だった
西田千太郎には西田精(にしだきよし)(「ばけばけ」の錦織丈のモデル)という弟がいて、この弟も優秀でした。東京帝国大学工科大学助教授や九州帝国大学工科大学教授を歴任したほどの人物です。
松江市上下水道局が公開しているPDFファイルには、1925(大正14)年に給水設備の拡張工事をするための助言を、西田精から助言を受けて行ったことが記録されています。
3. 妻と一男三女の子どもたちがいた
西田千太郎は、1884(明治17)年にクラという女性と結婚して、一男三女の子どもたちを設けます。
特に男の子たちは優秀で、長男・西田哲二は東京帝国大学工学部に学び、次男・東京帝国大学農学部卒業を経て、農商務省水産局、朝鮮総督府勤務を経て、のちに広島大学の水畜産学部教授・学部長に就任します。
4. 独学で検定試験を通り松江中学の教頭となった
江戸時代の封建制度では武士といっても最下級の身分である足軽であった西田千太郎ですが、その出自の低さがかえって「バネ」になったようなところがあります。
西田千太郎は松江中学を中途退学、一時東京に遊学したこともあるが、母校に教鞭を執る傍ら、独学自修によって心理、教育など数課目の検定試験に合格し、一、二の中学に教えた後再び松江中学の教頭となって帰ったと言われる。
田部隆次. 小泉八雲 ラフカディオ・ヘルン (中公文庫) (Function). Kindle Edition. No.4879
旧制中学を中途退学したものの、独学で先生となるための検定試験に合格し、母校・島根県尋常中学校(松江中学)の教頭となって故郷に錦を飾ります。
「ばけばけ」の第4週では吉沢亮さんが演じる錦織友一は、「東京はやり直せる場所だ」という印象的なセリフを口にしますが、モデルの西田千太郎もまさしく同じことを言ったかもしれません。
5. 八雲の英語を訂正できるほど英語力がずば抜けていた
「ばけばけ」の錦織友一は「大盤石」と言われるほど頭脳明晰な人物として描かれています。モデルの西田千太郎もやはり「出雲の三才子」と呼ばれるほど優秀でした。
独学で先生の試験に通ってしまうというところも、その優秀さを表すエピソードの1つですが、西田千太郎は英語力がずば抜けていました。
来日したばかりのラフカディオ・ハーン(小泉八雲)のために通訳をしていたというだけではなく、八雲が軍歌「喇叭手白上源次郎」の歌詞を日本語から英語に翻訳したとき、西田千太郎は八雲の英文を訂正しているのです。
ちなみにアメリカで新聞記者をしていたときの小泉八雲は自分が書いた原稿については、たとえ一字一句であろうと訂正されることを拒否するほど、自分が書いた文章についてはこだわりをもつ人物でした。
小泉八雲は西田千太郎のことを単に「日本第一の友人」と呼んだだけではなく、その英語力についてもいかに信頼をおいていたことが分かるエピソードでしょう。
6. 小泉八雲とセツの結婚を仲立ちした
「ばけばけ」の第7週でヘブン(トミー・バストウ)は士族の娘を女中として紹介してほしいと錦織友一に依頼し、錦織は松野トキ(髙石あかり)を紹介するというエピソードがあります。
実際のところ松江で下宿をする小泉八雲に小泉セツを初めて紹介するのは富田旅館の富田ツネですが、西田千太郎はその後親密になっていく八雲とセツの仲立ちをしていくことになります。
かくして、西田の媒酌はあり得ず、彼の同僚で義弟の後藤蔵四郎が言う、「只言語相通ぜぬ此二人に意志通ずるよく親切をしただけであった」としなければならない。出会いの後、結婚に至るまでの半年間に果たした役割の意味でのみ、セツの「仲に立たれて話をまとめて下さった」という言葉は、真実であると言えるのである。
長谷川洋二「八雲の妻 小泉セツの生涯」今井書店 133ページ
7. 結婚直前に八雲・セツ・西田の3人で出雲大社に参詣した
西田千太郎の仲立ちが実り、周囲に対して小泉八雲とセツの結婚を公表できるほどになった1891(明治24)年8月4日、小泉八雲・小泉セツ・西田千太郎の3人で出雲大社を参詣。
「八雲の妻 小泉セツの生涯」によると、この時期において3人で出雲大社を訪れることはかなり「意味深な出来事」であるとしています。
八月四日、ハーンは大社宮司の千家家に招かれ、彼のために特別に取り計らわれた豊年踊りを見物した。『出雲大社祖霊日記』の八月四日の条に、「へルン氏外二名豊年手踊見物に来り」との記載があるというが、『西田千太郎日記』の記載、それに「思ひ出の記」の表現から考えて、西田とともにセツが同行したことは、明らかである。
長谷川洋二「八雲の妻 小泉セツの生涯」 潮文庫 146ページ
8. 肺結核のため34才で亡くなる
西田千太郎は1897(明治30)年3月15日に34年の短い生涯を終えます。死因は肺結核による病死でした。小泉八雲は西田千太郎の死を大変悼んだと言われています。
小泉セツの「思ひ出の記」には西田の死を知ったときの小泉八雲の反応が克明に描写されています引用の文章は「小泉八雲 ラフカディオ・へルン」に収録されている「思ひ出の記」から)。
「利口と、親切と、よく事を知る、少しも卑怯者の心ありません、私の悪い事、皆言うてくれます、本当の男の心、お世辞ありません、と可愛らしいの男です」お気の毒な事にはこの方は御病身で始終苦しんでいらっしゃいました。「唯(ただ)あの病気、如何に神様悪いですね – 私立腹」などと言っていました。又「あのような善い人です、あのような病気参ります、ですから世界むごいです、なぜ悪き人に悪き病気参りません」東京に参りましても、この方の病気を大層気にしていました。
田部隆次. 小泉八雲 ラフカディオ・ヘルン (中公文庫) (Function). Kindle Edition. No. 3166
西田千太郎のエピソード 関連記事と参考文献
西田千太郎のエピソード 関連記事
「ばけばけ」の錦織友一のモデルとなった西田千太郎のエピソードについては、下記の記事でも言及しています。合わせて参考にしてください。
- 錦織友一 モデル 西田千太郎 朝ドラ ばけばけ 吉沢亮
- 錦織丈 モデル 西田精(にしだきよし) ばけばけ 杉田雷麟
- 吉沢亮 英語・英語力 英語は話せるの?朝ドラ ばけばけより
- 西田千太郎の死因は肺結核 小泉八雲が悼んだ若すぎる死
西田千太郎のエピソード 参考文献
今回の記事は以下の2冊の本を参考文献としています。
