エリザベス・ビスランドの名前について
エリザベス・ビスランドとは
NHKの朝ドラ「ばけばけ」でシャーロット・ケイト・フォックスさんが演じるイライザ・ベルズランドのモデルは、アメリカの記者で編集者のエリザベス・ビスランド(Elizabeth Bisland)(1861~1929年)です。
エリザベス・ビスランドは、1889(明治22)年から1890(明治23)年にかけて女性記者のネリー・ブライと世界一周旅行を競い、1891(明治24)年には「In Seven Stages: A Flying Trip Around the World(七つの旅路──駆けるような世界一周)」を出版。
またニューオリンズの「タイムズ・デモクラット」紙で勤務していたときに、文芸部長だったラフカディオ・ハーン(小泉八雲)と親交を結び、そのつながりは八雲の死後に長男・小泉一雄の時代にまで渡ったことで有名です。
エリザベス・ビスランドの名前
元々の名前はエリザベス・ビスランドですが、1891(明治24)年にチャールズ・ホイットマン・ウエットモアと結婚することで、名前がエリザベス・ビスランド・ウエットモアとなります。
日本において小泉八雲やその妻である小泉セツを評伝する上で、エリザベス・ビスランドは「ウエットモア夫人」と呼ばれることがあります。
エリザベス・ビスランドの出自と家族
エリザベス・ビスランドの出自
エリザベス・ビスランドの父方の家系はスコットランドからアメリカ大陸に移民して、南部に大規模なプランテーションを経営する一族で、母方はアメリカ・バーモント州にルーツを持つ名門の家系であると考えられています。
エリザベス・ビスランド自身は1861(万延2)年2月11日にアメリカ・ルイジアナ州セントメリー教区のフェアファックス農園で生まれます。
エリザベス・ビスランドの家族
エリザベス・ビスランドの家族として、父はトーマス・シールズ・ビスランド、母はマーガレット・ブラウソン・ビスランド、夫にチャールズ・ホイットマン・ウエットモアがいることが知られています。
エリザベス・ビスランドは何をした人なのか
農園主の娘から新聞記者に
エリザベス・ビスランドは大農園の娘として生まれたものの、南北戦争(1861~1865年)の余波を受け、農園を離れなければならず、帰還後も家族の生活は困難だったと伝えられています。
1873(明治6)年ごろにはナチェズ(Natchez)へ移り、10代で詩を「B.L.R. Dane」というペンネームでニューオーリンズ・タイムズ・デモクラット紙に投稿。1882(明治15)年ごろにはニューオーリンズに出て、「文学新聞」とも呼ばれた「タイムズ・デモクラット」で新聞記者として働くようになります。
このとき同紙で文芸部長をしていたラフカディオ・ハーン(のちの小泉八雲)と知り合います。
知り合いとなったきっかけはハーンの文章を読んだエリザベスが感銘を受け、彼女の方から親交を結びに行ったことで始まったと言われています。
女性記者のネリー・ブライと競って世界一周旅行に出る
エリザベス・ビスランドは1880年代後半にはニューヨークへ拠点を移し、新聞・雑誌に寄稿。やがて月刊誌『コスモポリタン』の文学エディターとなります。
さらに冒頭での述べたとおり、エリザベスは女性記者のネリー・ブライと競って世界一周旅行に出発。
1889年11月14日、ニューヨークを出発。ビスランドは西回り、ブライは東回りで出発。ビスランドの旅程は76日ほどで完走しましたが、ブライの72日をわずかに下回る記録となり「勝利」には至りませんでした。
この世界一周旅行の記録が冒頭で述べた「七つの旅路──駆けるような世界一周」として出版されることになります。
日本にも立ち寄っていたエリザベス・ビスランドの世界一周旅行
その後ニューヨークに移って1889年11月「コスモポリタン雑誌」のために、外の雑誌社から出た今一人の婦人記者と世界一周の競争を試みたとき日本に立寄る事24時間であった。
ちなみにエリザベス・ビスランドの世界一周旅行は、日本にも立ち寄っています。
エリザベス・ビスランドが立ち寄ったのは横浜で、のちに小泉八雲・セツ夫妻の長男・小泉一雄を横浜グランドホテルで雇って面倒を見ていた、ミッチェル・マクドナルドと知り合いになっています。
チャールズ・ホイットマン・ウエットモアとの結婚
エリザベス・ビスランドは1891(明治24)年に、法律家でのちに鉄道会社を経営することになるチャールズ・ホイットマン・ウエットモアと結婚。
この結婚により日本では「ウエットモア夫人」の名前で知られるようになりますが、著作活動は「エリザベス・ビスランド」の名前で続けることになります。
小泉八雲死後におけるエリザベス・ビスランドのエピソード 3選
1. 「ラフカディオ・へルンの生涯と手紙」の印税収入を小泉八雲の遺族に寄贈
小泉八雲が1904(明治37)年に亡くなったのちの1906(明治39)年、エリザベス・ビスランドは「ラフカディオ・へルンの生涯と手紙」を発表。
同書の印税収入に当たる部分は、妻・小泉セツはじめとした小泉八雲の遺族に全額寄贈しています。
2. 大の日本びいきだった
エリザベス・ビスランドは小泉八雲に感化され大の日本びいきであったと、小泉八雲の弟子で英文学者・田部隆次は語ります。
私は明治四十四年小泉家で初めてウエットモア夫人に遇った時、夫人が日本料理の午餐を刺身はもちろん漬物までも残さなかったのを見た。この時婦人は滞在中の時間を利用して茶の湯生花等の日本芸能を習得した。帰国の後オイスター・ベイにある宏壮なる邸宅を売り払って英国サリー州ウェスト・バイフリートに移住し、そこの邸宅の一室を「千鳥の間」と名づけて日本の美術品や骨董品で装飾したことを私は聞いた。
さらに田部隆次は、エリザベスがアメリカに移住したのちは、玉露茶と羊羹を好み、小泉家を通じて東京の日本橋から取り寄せていたというエピソードも紹介しています。
3. 長男・小泉一雄をアメリカに留学させようとした
ちなみにエリザベスと八雲の関わりは、八雲の長男である小泉一雄の時代にまで及びます。
小泉八雲・セツ夫妻の孫にあたる小泉時(小泉一雄の長男)さんは自著「へルンと私」で、エリザベスが横浜グランドホテルのミッチェル・マクドナルドと一緒になって、一雄のアメリカ留学を世話しようとしたエピソードが描かれています。
あるとき、ウェットモア夫人(エリザベス・ビスランド)が来日され、横浜のマ氏を訪ねたことがあった。このときは一雄も社長室に呼ばれ、三人で歓談した。話が一雄の米国留学に及んだ際、マ氏から一雄に、
「君も米国で法律を勉強してみないか?強い人間になれるように」
とすすめられた。一雄は、
「法律はどうも気が進みませんが、哲学ならやってみたい」
と、その場の言い逃れを言った。マ氏は、
「いやいや、法律も哲学も同じようなものだから、ぜひ法律をやってみなさい」
と再度すすめられた。一雄が返事に困っていると、ウェットモア夫人が横から、
「これは、一雄の意見のほうが正しい。私の見たところ、一雄は法律に向かないでしょう」
と助け舟を出してくれ、一同大笑いになったという。小泉時「へルンと私」恒文社 183ページから184ページまで
エリザベス・ビスランドの最期
なおエリザベス・ビスランドは1929(昭和4)年1月6日にバージニア州シャーロッツビル近郊で肺炎のため死去。その亡骸はニューヨーク・ブロンクス区のウッドローン墓地に埋葬されました
エリザベス・ビスランド 関連記事と参考文献
エリザベス・ビスランド 関連記事
朝ドラ「ばけばけ」のイライザ・ベルズランドのモデルとなったエリザベス・ビスランドについては以下の記事でも言及しています。
エリザベス・ビスランド 参考文献
今回の記事は小泉八雲が東京帝国大学文科大学で講師をしていたときに訓導を受けた、英文学者の田部隆次と、八雲の孫に当たる小泉時さんの著作を参考にしています。
