ローザ・カシマチ チャールズ・へルンとの結婚から離婚まで
母 ローザ・カシマチの履歴
NHKの2025年後期朝ドラ「ばけばけ」のヘブン(トミー・バストウ)のモデルとなっている小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の母親は、ローザ・カシマチです。
ローザ・カシマチはギリシアのイオニア諸島・キシラ島の出身で、コルフ島に駐在していたイギリス軍の歩兵ノッティンガム州第四十五連隊附の二等軍医正であった、チャールズ・ブッシュ・ハーン(以降、チャールズ・ハーン)と出会います。
現在のコルフ島やキシラ島を含むギリシアのイオニア諸島は、当時イギリスの保護領であったため、本国からチャールズ・ハーンが所属する連隊が派遣されていました。
チャールズ・ハーンとの結婚
以降の記事は主に東京帝国大学英文科で小泉八雲に師事した英文学者・田部隆次が1914(大正14)年に記した「小泉八雲 ラフカディオ・へルン」を参考にしています。
ローザ・カシマチとチャールズ・へルンは、親戚一同の猛烈な反対を押し切り、イオニア諸島のうちのどこかの島でギリシア式の結婚を行います。
結婚後、2人は男の子を授かりますがすぐに夭逝。しかし2番目の子どもとして、1850(嘉永3)年6月にレフカダ島リュカディアでラフカディオ・ハーンを授かりました。この男の子がのちの小泉八雲です。
ローザにはダブリンでの生活は難しかった
その後、夫・チャールズ・へルンは1851年末からのマルタ島勤務を経て、西インド勤務の命を受けます。そのためローザ・カシマチと幼いラフカディオは、アイルランド・ダブリンにいて義理の弟にあたる、リチャード(小泉八雲の叔父)のもとに送られます。
しかし、南ヨーロッパの明るい太陽の下に育ったローザにとって、霧が多く輝くような日光が少ないダブリンの気候は、耐え難いものだったようです。さらにローザにとってダブリンの生活が難しかったのは、義理の家族との宗教が合わなかったことです。
ハーン一家は英国教会に属していたため、南ヨーロッパ出身のローザの宗旨と合わず、ローザはダブリンのハーン一家において浮いた存在となります。
小泉八雲の大叔母 サラ・ブレナンとの同居
ただハーン一家のうち、カトリックの熱心な信者であった義理の叔母で、サラ・ブレナン(小泉八雲の大叔母にあたる)だけが、宗教的な見地から孤独なローザを憐れに思い、この母子を自身の邸宅に呼び寄せて住まわせます。
ローザはブレナン家の馬を使ってお買い物をしたり、お寺参りをしていたそうです。このときはローザは幸せだったそうですが、そんな生活も長くは続きませんでした。
チャールズ・ハーンとの離婚
1853年10月ごろにチャールズ・へルンは、黄熱病のため西インドからアイルランドに帰還することになりますが、この頃からローザとの仲が怪しくなります。
理由は2つ。ローザとの激情的な恋が冷めてしまったこととと、アイルランドへ帰還する船の中で昔の恋人であったクロフォード夫人(小泉八雲の継母)と再会したためです。
そのうちクリミア戦争(1853年〜1856年)が始まり、チャールズ・へルンも出征することになりますが、ローザと事実上の離婚をします(法律上の正式な離婚が決定したのは1857年)。
小泉八雲は母・ローザと4才で永別した
結局、幼いラフカディオは1854年、母・ローザに4才のときに別れて大叔母のサラ・ブレナンによって養育されることになりますが、ローザとは再会することはありませんでした。
ギリシャで再婚したローザは、後年アイルランドへラフカディオとその弟・ジェイムズに会いに来ますが、会うことは許されなかったと言われています。
小泉八雲に残した母・ローザの影響
「可哀想なお母さん」
つまり小泉八雲は幼いころに両親の離婚を経験しているのです。この離婚は八雲の目には「勝手な振る舞いをする冷酷無情の父と可哀想な愛する母」とうつり、その考え方は終生変わることはありませんでした。
小泉八雲・小泉セツ夫妻の長男である小泉一雄が1950(昭和25)年に記した「父小泉八雲」では、八雲は父・チャールズと母・ローザに対してこのような対照的な印象を持っていることを「へルンさん言葉」で明らかにしていたことを述べています。
もし私のあの酷いのパパさん私を訪ねて参りましょうならば、私、左様なら云います。私玄関から「往(い)んでくれ、もう来るなだい」(出雲弁)と叫びましよう。ー あゝ、しかし、もし私の Dear Mamma さんが参りましようならば、オ、私何んぼう喜ぶ。心から『よくいらっしゃいました』をするでしょう。
小泉一雄「父小泉八雲(前篇)」Kindle版 73ページ
小泉八雲の結婚にも影響を与えた母・ローザ
小泉八雲・セツ夫妻は国際結婚として知られていますが、それは八雲がラフカディオ・ハーンとしてのイギリス国籍を捨て、セツの日本国籍に合わせるという、当時としては珍しい形式でした。
しかし、こうした事情は小泉八雲の母であるローザ・カシマチが経験した離婚を踏まえた「教訓」であるとも考えられます。
ハーンは初めから、セツないし家族の欧米での住居を排除していた。それには一部にはせよ、ダブリンでギリシア人の母ローザの陥った悲惨が、思われてのことであったかも知れない。一八九三年五月のミンニー・アトキンソン宛の手紙に、「私は妻をヨーロッパに連れて行くことはできません。西洋の生活に慣れさせることは、不可能です。実際、それを試みることすら残酷と言えましょう」と書いた。
長谷川洋二「八雲の妻 小泉セツの生涯」今井書店 179ページから180ページ