小泉八雲の最初の結婚 アリシア・フォリー
小泉八雲は2度結婚していた
NHKの2025年後期朝ドラ「ばけばけ」のヘブン(トミー・バストウ)のモデルとなっている小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、生涯のうち2度結婚をしています。
1度目の結婚相手はアリシア・フォリーで、2度目の結婚は、「ばけばけ」のヒロイン・松野トキ(髙石あかり)のモデルとなった小泉セツです。
「違法」とされた最初の結婚
ラフカディオ・ハーンは、1874(明治7)年、24才のときにアメリカのオハイオ州・シンシナティで「マティ」とも呼ばれる、下宿屋で料理人をしていたアリシア・フォリーという白人と黒人の混血の女性と結婚します。
しかし当時のオハイオ州では異人種間での結婚は非合法とされていました。ハーンは、アリシアとの結婚は正式な結婚と考えていましたが、世間は認めません。この結婚は違法とされ、勤めていた新聞社「シンシナティ・インクワイラー」を解雇されます。
結局、アリシアとの「結婚」も1年と持たず離婚します。
小泉八雲の2度目の結婚 小泉セツ
小泉セツとの国際結婚とハーンの帰化
2度目の結婚は小泉セツとの結婚です。ラフカディオ・ハーンは、英語教師とし赴任していた松江の地で、1891(明治24)年8月に住み込み女中をしていた小泉セツと結婚します。ハーンが41才、セツが23才のときのことでした。
この結婚は当時は珍しい国際結婚で、しかもラフカディオ・ハーンがイギリス国籍を捨てて、日本国籍になるという形態です。
結婚の手続きは複雑で、帰化と結婚が法的に認められるのは1896(明治29)年2月となりましたが、それでもハーンは「家族のために日本人になる」という意志がはるかに勝っていたようです。
母・ローザの過去を教訓にした小泉八雲
小泉セツと結婚したときの心境を、東京帝国大学文科大学で小泉八雲に師事した田部隆次は、当時の八雲の心境をこのように述べています。
「人が死ぬ、裁判官が出張する、領事が出張する、財産調べが始まる、競売が始まる、遺産分配が行われるという仕方より主人の遺した物は何となしにそのまま家族一同の物になるという方が有難い」と夫人に語ったのはこの意味であった。妻子の方を英国籍に移すのは気の毒、むしろ自分一人だけ帰化した方が簡単であるという考えであった。
田部隆次. 小泉八雲 ラフカディオ・ヘルン (中公文庫) (Function). Kindle Edition. No.2592
こうした小泉八雲の結婚観には、4才で永別することになった母のローザ・カシマチが、父のチャールズ・ブッシュ・へルンによって「捨てられた」という過去を教訓にし、結婚によってセツと子どもを法的に守るという意志が表れています。
小泉セツの親族全員の扶養を約束
こうした小泉八雲の結婚観は、何も小泉セツとその子どもたちだけに適用されたものではありません。八雲と結婚した小泉セツには、養家の稲垣家と生家の小泉家に合わせて6人の扶養家族がいましたが、八雲は結婚に際して全員の扶養を約束。
さらに八雲が英語教師として松江から熊本に転任する際には、セツの養祖父・稲垣万右衛門、養父・稲垣金十郎、養母・稲垣トミも連れ、熊本の手取本町で同居しています。
義理の祖父・父母にも孝行を尽くした小泉八雲
八雲は義理の親族たちを本当の祖父や父母のように接していました。家族で食事をするとき、八雲の席次は、常に万右衛門・金十郎・トミに次ぐ4番目であり、最後まで孝行を尽くしていました。
下記の文章は「八雲の妻 小泉セツの生涯」からの引用で、「セツの夫」とは小泉八雲のことを指します。
一方、金十郎は、瘤寺の林との間にある草地に出、家族一同の見守る中で、見事な弓の腕前を見せたりもしていた。しかし。暇を持て余し気味の日々を送る間に、甘い物好きが祟(たた)って胃潰瘍を患うようになる。(中略)セツの夫は篤実で、出勤前後や食事前後に病床を見舞い、また、金十郎の手遊び(てすさび)に作る観世紙縒(かんぜこより)の玉のために、カラー写真入りの外国新聞や雑誌を届けたりしている。
長谷川洋二「八雲の妻 小泉セツの生涯」今井書店 201ページ