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大関和とは 大関和は何をした人 看護婦の職業を確立することに尽力

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目次

朝ドラ 風、薫る 一ノ瀬りん モデルの大関和

「明治のナイチンゲール」大関和は何をした人なのか

NHKの2026年前期朝ドラ「風、薫る」で主人公・一ノ瀬りん(見上愛)のモデルは、大関和(おおぜきちか)(1858~1932年)さんです。

大関和さんは明治時代に「トレインドナース」となり、明治・大正期を通じて偏見の多かった看護婦という職業の確立に多大な貢献をされました。その活躍から「明治のナイチンゲール」とも呼ばれています

また大関和さんはクリスチャンでもあり、当時盛んだった廃娼運動を通じてキリスト教の伝道や、当時盛んだった廃娼運動にも力を尽くされています。

大関和は何をした人なのか 参考文献

以降では大関和さんは、生涯において何をしたのかを紹介いたします。参考とした文献は以下の3冊です。

これら2冊のうち「明治のナイチンゲール 大関和物語」は朝ドラ「風、薫る」の原案となっています。また大関和さんの人生を年表にした記事は以下の記事を参考にしてください

大関和とは: 看護婦という職業の地位向上(1886~1888年)

桜井女学校内の桜井看護婦学校に入学

1886(明治18)年、大関和さんは牧師の植村正久さんに桜井女学校(現在の女子学院)内にある看護婦養成所(桜井看護婦学校)に入学することを勧められます。

当初、大関和さんは植村牧師の提案を聞いたとき、桜井看護婦学校に入学することに前向きではありませんでした。なぜなら当時、看護婦は「看病婦」と呼ばれ、「金のために傷病者の包帯を変えたり世話を焼いたりする卑しい職業」と世間で見なされていたからです。

実際、大関和さんは元・黒羽藩家老の娘というプライドもあり、植村牧師の提案に消極的でした。しかし、牧師のキリスト者としての熱心な説得に心を動かされ、翌1887(明治19)年に桜井看護婦学校に入学します。

第一医院の外科看病婦取締に

桜井看護婦学校では「トレインドナース(正規の訓練を積んだ看護婦)」を養成するために、アメリカの医師であるエフィー・A・ライトさんや、エジンバラ王立診療所の看護婦学校を卒業したアグネス・ヴェッチさんたちが、大関和さんなどの学生たちの指導・教育にあたりました。

大関和さんは1888(明治20年)10月に桜井看護婦学校を卒業し、帝国大学医科大学附属第一医院(現在の東京大学医学部附属病院)で外科看病婦取締となります。「看病婦取締」とは現代の言葉を使えば「看護師長」に相当します。

桜井看護婦学校で身につけた最新の技術をもとに、大関和さんは第一医院では昼夜を問わず働き、看護婦の職業的使命の高さを、患者だけではなく従来からいた医師や看病婦たちにまで広めていきます。

大関和とは: 廃娼運動を通じてのキリスト教の伝道(1891~1894年)

第一医院を退職

大関和さんの志の高さにひかれた、第一医院の看病婦たちは次第に大関和さんのような看護婦になりたいと申し出て、看護婦になるための講習会に参加しようとします。

ただし講習会の参加と言っても看病婦としての業務をこなした上でのことです。看護婦になることを志願する看病婦たちの労働環境は日々悪化することに。

そこで大関和さんは上司に当たる、佐藤三吉外科医局長に看病婦たちの待遇改善を訴える建議書を提出。

しかしこの建議書は周囲への根回しなしでいきなり提出されたものでした。第一医院は建議書の提出そのものを問題視。大関和さんは第一医院を辞めざるを得ない状況に追い込まれます。

高田女学校の舎監となり廃娼運動と出会う

生活費を稼がねばならない大関和さんに助け舟を出したのが、桜井女学校の後身である女子学院の初代院長・矢島楫子さんと女学校の設立に尽力したマリア・T・ツルーさんです。彼女たちは新潟県の高田にある高田女学校の舎監という職を用意してくれました。

単身で高田に赴任した大関和さんは、舎監としての仕事のかたわら、1891(明治23)年2月に当時盛んだった廃娼運動に出会います。廃娼運動とは女性の人権擁護の立場から遊郭での公娼制度を廃止する運動のことです。

かつて理不尽な結婚生活で女性の立場の弱さを痛感し、クリスチャンとなっていた大関和さんは、この廃娼運動に共鳴。自作の歌とオルガン伴奏でもって廃娼運動を擁護しました。

知命堂病院の看護長兼講師に

実は大関和さんが勤めていた高田女学校のすぐ近くには、第一医院で旧知であった医師の瀬尾原始さんが経営する知命堂病院がありました。

一説によると「大関和さんと瀬尾原始さんは偶然道でばったり出会った」とされていますが、大関和さんは1891(明治23)年11月、舎監の職を用意してくれた矢島楫子さんとマリア・T・ツルーさんに断りを入れた上で、知命堂病院の「看護長」として迎えられます。

さらに1894(明治26)年には、兼任として知命堂病院産婆看護婦養成所の講師にも就任しました。

大関和とは: 派出看護の質の向上(1896〜1901年)

鈴木雅が経営する「東京看護婦会」に参画

1896(明治29)年、大関和さんは高田の地を去り、再び上京します。桜井看護婦学校に同期で入学、卒業した鈴木雅さんが経営していた派出看護の「東京看護婦会」を手伝うためです。

現代の日本において看護師が活躍する場所は総合病院・診療所・介護施設・訪問看護など多岐に渡りますが、当時は「派出看護」が大きなニーズを占めていました。派出看護とは現代の訪問看護に近い形態です。

当時は病院で療養するよりも、自宅で療養する患者が多かったため、派出看護に従事する看護婦の割合が高かったと言われています。

「大日本看護婦人矯風会」の設立

ただ鈴木雅さんが「東京看護婦会」を始めた頃の東京府(現在の東京都)には、技量が不十分で質の悪い看護をする派出看護も横行しており、看護婦全体の質が問題視されていました。

事態の深刻さを憂えた大関和さんは内務省衛生局長・後藤新平に涙ながらに「直訴」。政府に看護婦に関する規則改正を訴えます。

さらに業界の自浄作用を働きかけ、派出看護全体の質の向上を目指すために、他の派出看護婦会とも連携し、1899(明治32)年には「大日本看護婦人矯風会」を設立しました。

なお同年、大関和さんは派出看護婦の仕事やその心得を説いた「派出看護心得」という本を出版します。

鈴木雅から「東京看護婦会」の経営を引き継ぐ

ただ、大関和さんのキリスト教の教えに基づく組織運営は一部で反発を招くこともあり、1901(明治34)年には「東京看護婦会」を辞職します。

しかしこのとき鈴木雅さんが「東京看護婦会」の経営から退くことを宣言し、後継の経営者として大関和さんを指名。

この頃の大関和さんは「東京看護婦会」の会長以外にも、「大日本看護婦人矯風会」の会長や「慈愛館(娼妓の更生施設)」の運営委員など団体や組織の運営に関わる仕事が多くなっていたため、看護の第一線で働くことは少なくなっていました。

なお1908(明治41)年、大関和さんはこれまで蓄えた看護の知識や技術の集大成と言える「実地看護法」を出版します。

大関和とは: 大関看護婦会の設立と経営(1909〜1929年)

キリスト教主義の「大関看護婦会」

鈴木雅さんから経営を引き継いだ大関和さんは、「東京看護婦会」を100人以上の看護婦を擁する派出看護婦会に成長させます。

しかし大関和さんのように、キリスト教が説く慈愛の精神を持って看護を行うというスタイルには反発する看護婦も多く、時には20人もの看護婦が一斉に退職する事態も発生。

そこで大関和さんは「東京看護婦会」の看板を外した上で、会員となる看護婦をクリスチャンに限った「大関看護婦会」を1909(明治42)年に設立します。

「大関看護婦会」には娼妓や女郎から看護婦になった女性も

「大関看護婦会」には「東京看護婦会」に在籍していた熟練の看護婦が残り、キリスト教主義の看護を全面に打ち出すことができるようになりました。

また「大関看護婦会」には、かつて遊郭の娼妓や女郎だった女性たちが「慈愛館」を経由して看護婦として働いていて、大関和さんは女性の経済的な自立にも大きく貢献したとも言えます。

派出看護婦全体の質の向上も

キリスト教の教えに基づいた「大関看護婦会」は評判も高く、40~50人ほどいた看護婦たちは上流家庭への派出看護に出かけることも多く、物腰も言葉遣いも大変丁寧で有名だったそうです。

その一方でやはり派出看護婦全体の評判は必ずしも芳しいものではなく、看護婦が「洗濯婆」ぐらいにしか見られていない雰囲気も社会にまだ残っていました。

そういった世評に大いに憤慨した大関和さんは、警視庁衛生部長である医師・栗本東明に「直談判」を行い、机を叩き涙を流しながら「そうではない」と説明しに行ったという逸話も残されています。

大関和の評価 看護婦・看護師という職業に与えた影響

「派出看護」という看護スタイルは、大正末期から昭和初期の1920年代にかけて全盛期を迎え、1929(昭和4)年、大関和さんは甥の川原博巳さんの妻である川原貞さんに「大関看護婦会」の経営を引き継ぎます。

しかしそれ以降は大病院に派出される「派出婦」の進出もあって、看護婦と言えば派出看護婦を指す時代は徐々に下火となりました。

それでも「トレインドナース」を志し、その道を切り拓いた大関和さんや鈴木雅さんは、看護師という現代にも通ずる重要な職業を確立し、さらに女性の経済的自立を促す活躍をしたという意味で、大いに評価されるべき女性たちでしょう。

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大関和の年表

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