小泉セツの「産みの母」について
松野トキのモデル 小泉セツの生母・小泉チエ
NHKの2025年後期朝ドラ「ばけばけ」のヒロイン・松野トキ(髙石あかり)のモデルである小泉セツの生母は、小泉チエ(こいずみちえ)(1838年〜1912年)です。
小泉チエは小泉湊の妻であり、1868(慶応4)年2月、30才の時に小泉セツを産み、生後7日目にして稲垣家へ養子に出しています。
小泉チエは家老・塩見家の出身
小泉チエは松江藩の中でも一、二を争うほどの美人であったと言われていました。さらには実家は塩見家という松江藩において代々、家老を務める家柄。
千四百石取りの塩見家は、小泉セツの養家で並士の稲垣家はもちろんのこと、番頭(ばんがしら)の家格を持つ嫁ぎ先の小泉家よりもはるかに高い家格を持つ家柄でした。「八雲の妻 小泉セツの生涯」では小泉チエの生い立ちについて、このように紹介しています。
また彼女は十四才で花嫁として小泉家に迎えられるまで、松江城(千鳥城)の三の丸御殿を真向かいにした塩見家の広壮な屋敷で、名家老増右衛門(ますえもん)の一人娘として三十人近くの奉公人にかしずかれて生い育った女である。
長谷川洋二「八雲の妻 小泉セツの生涯」今井書店 12ページ
明治維新後の小泉チエ
上級武士の家系に育った女性の価値観
小泉チエのような封建時代の上級武士の女性たちは、「1人で何か作業をする」ということはほとんどありません。日常必需品を買うために外に出ることもなければ、炊事・洗濯をすることもありません。彼女たちは奉公人や家臣たちに指示をするだけです。
これは自分が「楽をしたい」や「体を動かしたくない」からというよりも、「武士の娘は細々としたことに動じない」という武士の価値観に基づく教育が徹底していたからです。
上級武士の価値観が小泉チエを貧窮に追い込む
しかし、小泉チエにとって、明治維新後にはその「育ちの良さ」がかえって仇となります。1886年(明治19年)ごろに小泉湊が設立した機織会社が倒産しても、小泉チエは毅然とした態度を貫いたようですが、何ら家計を助けることはできなかったようです。
小泉セツと小泉八雲の出会いを描いた小説「へルンとセツ」にはこのような描写があります。
「すまんな、セツ」
力なく笑う湊が一回りも小さく見えた。チエはと見ると、部屋の隅で本を読んでいた。落ちぶれてもなお変わらぬ毅然とした姿はセツを安堵させた。何があってもチエだけはそのままでいて欲しかった。すべてを失ってなお誇り高いチエはセツの支えだった。田渕久美子「へルンとセツ」NHK出版 51ページ
夫・小泉湊が1887(明治20)年に亡くなり、小泉家の家計はさらに悪化します。小泉チエはその日の糧を得るためだけに家の調度品を売り払い、ついには人に食を乞うまでに生活が貧窮します。
再話文学の語り手・小泉セツを育てた小泉チエ
小泉セツのお話好きは小泉チエ譲り
朝ドラ「ばけばけ」の松野トキのモデルとなった小泉セツは機織・洋服の仕立て・住み込み女中など仕事を掛け持ちすることで、養家の稲垣家だけでなく、生家の小泉家の家計も支えました。
そんな小泉セツにとって生母の小泉チエとは孝行の対象であり、セツを「再話文学の語り手」として導いた側面があります。
NHKは朝ドラ「ばけばけ」の出演者発表において、松野トキの母で、池脇千鶴さん扮する松野フミを「トキのお話好きはフミ譲り」としていますが、この設定は小泉セツの養母・稲垣トミだけではなく、生母の小泉チエも意識した設定であると考えられます。
「月照寺のテイ坊」のお話
では小泉チエは小泉セツに対してどのようなお話を聞かせていたのでしょうか?その1つに「月照寺のテイ坊」のお話があります。
それはあるおぼろ月夜の日、チエが実家を訪ねての帰り道のことだった。女中と若党の二人を供に連れて屋敷町を歩きながら、雨が上がったばかりの足下を気にしつつ進んで行った。すると突然、後ろから何かが走ってきて、チエの袖のあたりをすり抜けていった。「狐だ!」と若党が叫ぶ。するとその狐を追って大きな犬が駆けてきて、チエに突き当たりそうな勢いですり抜けようとした、チエは「おのれ、無礼な」と、手にしていた雨傘で打ち据えた。犬はキャンと鳴いて後ずさりし、来た道を引き返して行った。
その二日ばかり後の黄昏時、品の良い小柄な女が小泉家を訪れた。女は女中にふくさ包みを差し出すと、「これは先だっての夜のお礼です。どうぞ奥方様にお渡しください」と言う。「どちらさまで」と尋ねると、「月照寺のテイ坊と申す者からとお伝えください」と答えて帰って行った。チエがふくさ包みを開くと、中には二分銀二枚と南天の葉が一枚入っていた。使いの者を月照寺に遣って、テイ坊という者について問い合わせたが、誰も心当たりがないと言う。田渕久美子「へルンとセツ」NHK出版 305ページ
上記の文章は「へルンとセツ」から引用していますが、「八雲の妻 小泉セツの生涯」の59ページにも同じ話が掲載され、セツの心を捉えたと説明しています。