小泉湊とリウマチ
晩年の小泉湊はリウマチを患っていた
NHKの2025年後期朝ドラ「ばけばけ」で堤真一さん扮する雨清水傳(うしみずでん)のモデルとなった小泉弥右衛門湊の死因はリウマチによる体力の衰えであると考えられます。
小泉湊は1886(明治19)年ごろ、小泉家では経営していた機織会社の倒産や、次男・武松がわずか19才で逝去するなど不幸が続く中、湊自身もリウマチを患い病床に伏せる身となっていました。
小泉湊のリウマチを悪化させた小泉家の経済状況
立て続く不幸の中でも小泉湊の病状をより悪化させていたのは、小泉家の経済状態でした。小泉家は旧松江藩の上級武士の家系であったため、家族の誰一人として家計を支えるために人に雇われて賃仕事を引き受ける者はいませんでした。
「八雲の妻 小泉セツの生涯」では、小泉家の将来を憂う小泉湊の壮絶な最期の様子が伝わっています。
ある朝、小泉湊は、寝床から動けぬほどに病む身でありながら、何か物に憑かれたかのように突然立ち上がり、柱に掛けてあった馬の鞭を執るや、南側の廊下によろけ出て、鳥籠を縁から蹴落とし、藤三郎の襟首をつかんで、「おのれ、親不孝者め。そちの腐れ根性を打ちすえてくれるわ」と叫ぶとともに、滅多打ちに鞭を振い出した。家中がその場に駆けつけて湊を抑え、寝床に連れ戻したが、病人は喘ぐ呼吸とともに、肋骨を波立たせるのであった。彼の病勢はにわかに高じ、間もなく齢五十で亡くなったのである。
長谷川洋二「八雲の妻 小泉セツの生涯」今井書店 102ページ
こうして小泉湊は1887(明治20)年に50才で亡くなります。結局、小泉湊亡き後に小泉家の家計を支えたのは、生後7日にして稲垣家へ養子に出されていた小泉セツ(朝ドラ「ばけばけ」の松野トキのモデル)でした。
19世紀後半におけるリウマチのリスク
「間接的に」死へと追い込むリウマチという病
現在の医療水準からするとリウマチは死を恐れるような「不治の病」ではありません。しかし小泉湊が亡くなった1880年代の日本では、リウマチは直接的な死因にはならなくとも、間接的に死に至らしめる厄介な病気でした。
リウマチによる関節の変形やその痛みにより寝たきりになることで、筋力低下・肺炎・褥瘡になるリスクだけでなく、さらに「動けない・働けない」という状態のために貧困や栄養失調で衰弱死するリスクもあったのです。
社会保障制度が未整備であったことも小泉湊の寿命を縮めた原因
現在の日本では明治時代と比べると医学水準が格段に向上しただけではなく、国民皆保険制度(PDFファイル)のおかげで病気による貧困リスクや死亡リスクが、かなり低下しています。
しかし明治時代の日本には国民皆保険制度という基本的な社会保障制度は未整備であり、こうした時代背景も小泉湊の寿命を縮めたと言えるでしょう。