記事の要約
「ばけばけ 勲のモデル 小泉一雄はどうなるのか」ネタバレまとめ
- 1920(大正11)年に京都帝国大学工学部を入学。大学在籍中に学生結婚
- 1927(昭和2)年に京都帝国大学文学部英文科を卒業
- 1928(昭和3)年から京都府立桃山中学校に英語教師として勤務
- 1937(昭和12)年、がんのため死去。享年40
ばけばけ 勲のモデル 稲垣巌の史実
1. 積極的だった幼少期・若年期
朝ドラ「ばけばけ」の第24週から登場する、勲(いさお)と名付けられたトキとヘブンの次男は、実在した小泉八雲と小泉セツ夫妻の次男・稲垣巌(1897~1937年)がモデルです。
実在した稲垣巌はその後どのような人生を送るのでしょうか?
巌は大変積極的な子供だったと言われています。小泉八雲の晩年には、兄で長男の一雄とともに焼津の海岸に連れて行かれ、水泳の手ほどきを受けたところ、波を恐れず率先して海に飛び込み、言われた通りの姿勢で背泳ぎをしていました。
また岡山の第六高等学校(現在の岡山大学)在学時には、先輩から囃し立てられて、学生寮の3階から砂場に飛び降り、卵丼を奢らせることもしていたそうです。
2. 京都帝国大学在学中に学生結婚
第六高等学校に進学していたことから分かるように、巌は子供の頃から学校の勉強が大変良くできました。大学は1920(大正9)年7月に京都帝国大学(現在の京都大学)に入学し、1927(昭和2)年に文学部英文科を卒業。
この京都帝国大学の在学中の1922(大正11)年には、八戸出身の種市翠(たねいちみどり)と学生結婚。
現代の令和では学生結婚はさほど珍しいものではありませんが、大正時代では珍しいというよりも後ろめたさが先立ち、小泉セツにとってめでたいというよりも恥ずかしいものであったと「ヘルンと私」で説明されています。
3. 桃山中学に英語教師として勤務するも40才で死去
稲垣巌は京都帝国大学を卒業した後、1928(昭和3)年、京都府立桃山中学校(現在の京都府立桃山高等学校)の英語教師として勤務。
ありきたりな解釈ではつまらないということで、ジェスチャーを交えて面白おかしく英語を説明するなど、生徒たちからは大変人気のある先生だったようです。
しかしこの桃山中学に勤務している時に、さる令嬢との恋仲に陥ってしまいます。そのため1934(昭和9)年、妻の翠が子供たち(八重子・明男・京子)を連れて実家がある八戸へ去ることに。さらに不幸が続き、同じ年に睾丸で見つかったがんの摘出手術を受けます。
3年後にはそのがんが肝臓や胃に転移したと考えられ、巌は40才で他界することになりました
稲垣巌の年表
| 西暦(和暦) | 年齢 | できごと |
|---|---|---|
| 1897(明治30)年 | 0才 | 2月15日に小泉八雲・セツ夫妻の次男として東京市牛込区市ヶ谷富久町で誕生 |
| 1901(明治34)年 | 4才 | 小泉セツの養家・稲垣家と養子縁組し、苗字を「稲垣」に改姓 |
| 1904(明治37)年 | 7才 | 父・小泉八雲が狭心症のため死去 |
| 1920(大正9)年 | 23才 | 6月に岡山の第六高等学校を卒業し、7月に京都帝国大学工学部に入学 |
| 1922(大正11)年 | 25才 | 種市翠と学生結婚。京都帝国大学工学部から除籍処分を受ける |
| 1923(大正12)年 | 26才 | 長女・八重子が誕生 |
| 1924(大正13)年 | 27才 | 京都帝国大学文学部に入学 |
| 1927(昭和2)年 | 30才 | 京都帝国大学文学部を卒業 |
| 1928(昭和3)年 | 31才 | 京都府立桃山中学校に英語教師として赴任 |
| 1932(昭和7)年 | 35才 | 母・小泉セツが脳溢血のため死去 |
| 1934(昭和9)年 | 37才 | 6月に翠が京子・明男を連れて八戸の実家に去る。7月には長女・八重子も八戸に去る。9月に京大病院で睾丸にできた癌の摘出手術を受ける |
| 1937(昭和12)年 | 40才 | 6月に癌が再発し京大病院に入院。8月15日に転院先の慶応病院で亡くなる。 |
ばけばけ 勲 どうなる ネタバレ 関連記事と参考文献
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今回の記事は以下の書籍を参考文献としています。
