小泉チエは「ばけばけ」雨清水タエのモデル
「雨清水タエがトキの実母」と言う話は実話に基づく設定
NHKの朝ドラ「ばけばけ」で登場する北川景子さんが演じる雨清水タエとは、ヒロイン・松野トキ(髙石あかり)のモデルとなっている小泉セツの実母・小泉チエ(1838~1912年)がモデルとなっています。
「ばけばけ」の第3週「ヨーコソ、マツノケヘ」において、雨清水タエが松野トキの実母であることが明らかになります。
この雨清水タエのモデルとなっている小泉チエは、セツの実母であったこと以外にも様々なエピソードを持つ女性です。
小泉チエのエピソード 5選
1. 小泉チエは松江藩の家老・塩見家の娘だった
小泉チエの出身は、出雲松江藩では「名家」として知られた塩見家の出身です。塩見家は代々に渡って1,400石もの高禄を受け取り、藩の家老を務める家柄でした。
実際、チエの父・六代目塩見増右衛門は江戸家老として、当時の藩主・松平斉貴(まつだいらなりたか)の贅沢や放蕩を三度諌め、三度目の諫言のあとに切腹を果たした程の人物です。
松江藩の殿様をセツの母方の祖父にあたる塩見増右衛門が諌めたと言うお話は、小泉セツの長男である小泉一雄が著作の「父小泉八雲」の中に収録されています。
「ばけばけ」の雨清水タエを夫の傳を呼び捨てにする理由
ちなみに「ばけばけ」の雨清水タエは、夫・雨清水傳(堤真一)のことを「傳(でん)」と呼び捨てにしています。これは雨清水傳が小泉家の人間であり、その小泉家が300石取りの武士であったことから来ていると考えられます。
大名家で300石取りの武士といえばかなり身分の高い上級武士ですが、それでも1,400石取りの塩見家からすれば、小泉家は「身分の低い家柄」だったのです。
2. 死体を前にしても状況を冷静に判断する胆力があった小泉チエ
実は小泉チエは小泉湊と結婚する1年前に、ある高位にある侍と結婚しました。しかし婚礼の夜、新郎は何時になっても寝所にはやってきません。そのとき庭で不審な物音がします。
懐剣を携えた小泉チエは侍女を従えて庭を確認すると、目の前には男女一組の死体が。女性の死体には首がなく、男性の死体には脇差で腹を一文字にかっさばいたあとがありました。どうやら女性はその家の侍女で、男性は小泉チエの新郎で2人は不義密通をしていたようです。
凄惨な現場に突然遭遇したにも関わらず、小泉チエは取り乱すこともなく、婚家で義母に当たる女性に落ち着き払って現場の状況を報告し、次の指示を仰いだと言われています。
3. 諸芸や学問に通じていた小泉チエ
上級武士の育ちであった小泉チエに茶道や華道、さらには三味線や読書の嗜みがありました。
こうした教養は実子のセツに伝えられ、セツがお茶やお花の嗜みを小泉八雲に披露すると大変喜ばれたと言われています。また小泉チエは大の読書家でもあり、セツが大好きな「お話」も知っていたようです。
そのうちのお話の1つが「月照寺のテイ坊」という不思議なお話です。このお話については下記の記事を参考にしてください。
4. 物乞いの境遇にまで落ちぶれた小泉チエ
しかし江戸時代に生粋の上級武士の家庭で育った小泉チエにとって、武士の身分がなくなった明治時代は過酷なものでした。
夫・小泉湊が始めた機織会社が倒産したのちは、なすすべもなく貧困に陥り、三度の食事を人から乞わねばならない物乞いの立場にまで落ちてしまいます。
現代人の感覚からすると「チエも働けばいいじゃないか」と言うことになるのでしょうが、上級武士の娘が労働をするなどは卑しいものであると言う価値観で育っているため、雇われて賃金をもらうという行為ができなかったのです。
なお「ばけばけ」の第6週において、雨清水タエが道端で物乞いをしていると言う衝撃のシーンが登場します。
5. 小泉チエの生活は小泉セツからの仕送りで成り立っていた
こうした実母の窮迫ぶりを見かねた小泉セツは、当時「洋妾(ラシャメン)」と呼ばれて蔑まれることを覚悟の上で、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の住み込み女中となることを決意。
セツは八雲から支払われる給料の一部を割いて、チエに仕送りをしていました。この仕送りはチエが亡くなるまで続けられていたと見られます。
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小泉チエや雨清水タエについて
「ばけばけ」の雨清水タエのモデルとなっている小泉チエについては、下記でも言及しています。合わせて参考にしてください。
