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小泉セツ 父・小泉弥右衛門湊(こいずみやえもんみなと)

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朝ドラ「ばけばけ」 雨清水傳のモデル

小泉湊は小泉家の「八代目弥右衛門」だった

NHKの2025年後期朝ドラ「ばけばけ」で堤真一さん扮する雨清水傳(うしみずでん)のモデルとなっているのは、小泉セツの実父である、小泉弥右衛門湊(こいずみやえもんみなと)です。小泉家は代々の当主が「弥右衛門」を名乗り、湊はその八代目に当たります。

小泉家は1658(万治元年)に初代弥右衛門が出雲松江藩の祖である松平直政に仕え始め、二代弥右衛門は50人の侍を率いる番頭を務める家となり、以降、八代目の湊まで代々三百石を食む「松江藩の貴族」とも言うべき存在でした。

小泉湊は子だくさんであったため、1868(慶応4)年に生後7日後の小泉セツを、子宝に恵まれなかった稲垣家へ養子に出します。

第一次・第二次長州征伐にも従軍していた小泉湊

雨清水傳 モデルは小泉湊 小泉セツの実父 朝ドラ ばけばけ」と言う記事で、雨清水傳は「文武両道に秀でたエリート」であることを述べました。実在の小泉湊は単に文武両道に秀でただけではなく、さらには実戦経験もある侍でした。

長州藩が起こした「禁門の変」をきっかけに幕府がとった第一次長州征伐(1864年)には鉄砲頭として出陣し、今市に駐屯。

さらに1866(慶応2)年の第二次長州征伐では歩兵隊長として長州と石見(現在の島根県西部)の国境にある口田儀に派遣され、騎馬で突撃してくる長州の奇兵隊に対して鉄砲を浴びせて撃退をすると言う武勲をあげています。

明治維新後の小泉湊

家禄奉還で機織会社を設立

明治維新によって版籍奉還・廃藩置県が進み、1873(明治6)年に徴兵令が公布。平民で構成する軍隊を作ることによって、明治政府は武士に対して家禄を支給する義務は無くなりました。

そこで政府は士族に対して家禄の奉還を求め、その引き換えに家禄の6年分を一括して渡し、士族の就業を促します。1875(明治8)年、小泉湊はこの政府が進める「家禄奉還」に応じて資金を得て、機織会社を起こして社長となります。

織子として多数の士族の娘を雇い、この出来た機織会社で出来た反物は広く大阪まで流通していたと言われています。

小泉セツは小泉湊の機織会社で働いていた

ちなみに朝ドラ「ばけばけ」のヒロインである、松野トキ(髙石あかり)のモデルとなった小泉セツも小泉湊の機織会社で雇われて働いていました。

小学校をわずか4年で卒業することになったセツが、精を出して織り上げた木綿の織見本帳は今も島根県松江市の小泉八雲記念館で残されています。

機織会社の倒産と小泉家の没落

小泉湊の機織会社は当初、好調でしたが、1886(明治19)年ごろには倒産します。そのため小泉家は2度も転居を強いられ、親類縁者の家に同居せざるを得ないほど没落します。

さらに小泉家の不幸は会社の倒産だけにとどまりませんでした。次男の小泉武松は19才の若さで亡くなり、湊自身もリウマチを患い床に伏せってしまいます。

結局、湊の病は癒えることがなく、1887(明治20年)に50才で亡くなります。

ある朝、小泉湊は、寝床から動けぬほどに病む身でありながら、何か物に憑かれたかのように突然立ち上がり、柱に掛けてあった馬の鞭を執るや、南側の廊下によろけ出て、鳥籠を縁から蹴落とし、藤三郎の襟首をつかんで、「おのれ、親不孝者め。そちの腐れ根性を打ちすえてくれるわ」と叫ぶとともに、滅多打ちに鞭を振い出した。家中がその場に駆けつけて湊を抑え、寝床に連れ戻したが、病人は喘ぐ呼吸とともに、肋骨を波立たせるのであった。彼の病勢はにわかに高じ、間もなく齢五十で亡くなったのである。

長谷川洋二「八雲の妻 小泉セツの生涯」今井書店 102ページ

小泉セツと小泉家の人たち

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