柳井千尋・柳瀬千尋 名前の由来
朝ドラ「あんぱん」の柳井千尋(やないちひろ)(中沢元紀)は、やなせたかしさんの2才年下の弟・柳瀬千尋(やなせちひろ)がモデルです。
やなせたかしさんの本名は柳瀬崇で山にちなんでいますが、弟の千尋は「千尋の海」ということで海にちなんでいます。この「崇」と「千尋」の名前は朝ドラ「あんぱん」の登場人物でも「柳井崇(北村匠海)」・「柳井千尋」として使われています。
柳瀬千尋は旧制高知高校から京都帝国大学の学生に
やなせたかしさんの死後、「やなせたかしおとうとものがたり」という詩集が発表されました。この詩集にはやなせたかしさんに対する、弟・柳瀬千尋に対する思いが綴られています。
やなせたかし 弟・柳瀬千尋への思い
やなせたかしさんは、学生時代に自分より優秀だった柳瀬千尋が、22才のときに海軍中尉として台湾とフィリピンの間にあるバシー海峡で駆逐艦と潜水艦との戦闘に巻き込まれて戦死してしまったことを、特に晩年において惜しんでいたと考えられます。
人生に「たら」という言葉は禁句です。
しかし自分の人生が晩年近くになった最近になって、しきりにもし父親が生きていたらとか、弟が生きていたらとか思うようになった。
父親が三十二歳、弟は二十二歳でこの世を去った。
(中略)
弟が二十二歳でこの世を去ったのも情けない。弟はある意味で柳瀬家のホープであった。性格も明るく成績も良く、柔道二段で快活であった。やなせたかし「やなせたかしおとうとものがたり」 フレーベル館 44ページ
やなせたかしさんは、引用した文章で弟・柳瀬千尋は「柳瀬家のホープであった」と表現されています。これはある意味その通りで、柳瀬千尋は旧制の高知県立城東中学校(現在の高知県立追手前高校)を卒業した後、旧制高知高校(現在の高知大学)を経て、京都帝国大学法学部(現在の京都大学法学部)に入学します。
柳瀬千尋とはどんな学生だったのか?
では柳瀬千尋は京都帝国大学法学部の学生時代、どのようなタイプの学生だったのでしょうか?
「慟哭の海峡」では旧制高知高校の同級生でのちに東京帝国大学を経て、商船三井の社長と会長を歴任された近藤鎮雄さんのコメントが残されています。
「柳瀬は、非常に性格のいい、微笑ましい存在だった。絶対に自分から前に出てくるわけでもないしね。柳瀬は京都帝大の法学部に行ったが、法学部志望のなかには勉強して高等文官試験(筆者注=現在の国家公務員Ⅰ種試験)を通って、官僚の道に進もうとする者もいただろうけど、柳瀬の口からはそういうことは聞いたことがなかった」
門田隆将「慟哭の海峡」 角川書店 137ページより
柳瀬千尋のクラスからは実際に官僚の道に進み、のちに政治家・大臣になる学生もいたと見られますが、柳瀬千尋はそういうタイプとはまったく異なっていたようです。
柳瀬千尋 京都帝国大学を卒業後に海軍を志願
本来、1944(昭和19)年3月に卒業するはずだった柳瀬千尋は、太平洋戦争の戦局悪化に伴い、修業年限を2年6ヶ月に短縮されて1943(昭和18)年9月に京都帝国大学法学部を卒業します。
卒業後の進路は、当時の大学生・高等専門学校の学生に共有された雰囲気のように、海軍予備学生(現役士官の不足を補うために予備役の海軍将校になることを目的とした学生)に志願し、神奈川県の武山海兵団に入団します。
朝ドラあんぱんの柳井千尋とモデルの柳瀬千尋との比較
こういった柳瀬千尋の背景や性格は、朝ドラ「あんぱん」の柳井千尋の役柄にも反映されているようです。
幼少期は体が弱く、兄の陰に隠れるような弟だったが、大きくなるにつれ、家族思いで優しく、文武両道の青年となる。
NHKは朝ドラ「あんぱん」の柳井千尋を「文武両道の青年」と説明していますが、モデルとなった柳瀬千尋が「柔道二段」の腕前で、「京都帝国大学法学部の学生」であったことを役柄の中に入れていると考えられます。