やなせたかしの弟 京都帝国大学卒業後に海軍予備学生に
漫画家・やなせたかしさんの弟は柳瀬千尋で、名前の読み方は「やなせちひろ」となります(朝ドラ「あんぱん」では柳井千尋が柳瀬千尋のモデルであると考えられます)。
海軍入隊前までの柳瀬千尋
柳瀬千尋は2才の時に父・柳瀬清を亡くし、伯父・柳井寛と伯母・柳井キミ夫婦に引き取られて育ちました。後免野田組合立小学校を卒業した後は、旧制高知県立城東中学校(現在の高知県立追手前高校)・高知県立高知高校(現在の高知大学)を経て、京都帝国大学法学部に入学します。
柳瀬千尋 武山海兵団に入団
柳瀬千尋は1943(昭和18)年9月23日に京都帝国大学法学部を卒業した後に、海軍兵科三期の海軍予備学生として神奈川県三浦郡武山村にあった武山海兵団に入団します。
通常、海軍士官になるためには修業年限4年の海軍兵学校を卒業しなければなりません。しかし政府・軍は日中戦争・太平洋戦争の激化に伴う若い将校の不足を、全国の大学生・専門学校生たちから補充しようとしました。
そのため武山海兵団では、わずか4ヶ月で海軍の初級士官を作り上げるために、精神教育・体力錬成・知識の伝授を行なっていました。いわば柳瀬千尋は即席の海軍士官になるために「詰め込み」の基礎教育を受けたということになります。
柳瀬千尋は武山海兵団から海軍対潜学校へ
武山海兵団を4ヶ月で卒業した柳瀬千尋は、1944(昭和19)年に海軍士官としての専門分野を持つために、久里浜にある機雷学校(のちの対潜学校)に進みます。対潜学校とは「対潜水艦作戦」・「爆雷投射」・「水中測的」を教授する学校です。
日本における対潜水艦戦の文脈で柳瀬千尋が就いた役割
1943年から1944年にかけて日本は、米軍の潜水艦攻撃による輸送船喪失の被害が激増しており、海軍がその対策に追われている時期で、柳瀬千尋は国運を左右する学校に配属されたことになります。
対潜学校の学生たちが就くことになる任務は、突き詰めていくと「水中の音で敵潜水艦を発見する」ということです。一言で言ってしまうと単純なことながら、発見できなければ自艦は敵潜水艦の餌食になってしまうという、艦と乗組員の命運を左右する任務でもありました。
戦死覚悟の対潜水艦探知任務
しかも対潜学校の卒業生が配置されるであろう駆逐艦の水測室、つまり水中の音を探知するための専用区画は艦の中でも非常に危険な位置にありました。
「彼らが任務につくのは水測室というところですが、非常に危険な部署です。どの艦もだいたい艦橋の下か、そのやや前方あたりにありますが、いずれも艦底に近い位置にありますから」
そう語るのは、防衛研究所戦史研究センターの柴田武彦・史料室長である。門田隆将 「慟哭の海峡」 角川書店 185ページ より
柳瀬千尋は対潜学校から駆逐艦「呉竹」乗組に
久里浜の対潜学校で4ヶ月の専門課程を終えた柳瀬千尋は、1944(昭和19)年5月に海軍少尉として任官し、駆逐艦「呉竹」の乗組を命じられます。
柳瀬千尋は東南アジア方面の船団護衛任務に従事
柳瀬千尋が乗組を命じられたのは、駆逐艦・呉竹である。大正十一年にできた若竹型二等駆逐艦の二番艦だ。昭和十八年以降、呉竹は第一海上護衛隊に編成され、内地からシンガポール、マニラ方面への船団護衛と対潜任務という、日米の対潜水艦戦争の最前線にいた。
門田隆将 「慟哭の海峡」 角川書店 193ページ より
台湾と東南アジア周辺の海域と日本本土を往復する輸送船は、日本の戦争の趨勢を決める重要物資を運んでいます。駆逐艦「呉竹」は重要な最前線に投入され、柳瀬千尋は「呉竹」水測室の分隊士として敵潜水艦の探知をしていたと考えられます。
柳瀬千尋 戦死 1944(昭和19)年12月30日
1944(昭和19)年12月30日、駆逐艦「呉竹」は、台湾とフィリピンの間に横たわるバシー海峡を航行していました。午後12時ごろ、敵潜水艦の襲撃を受けます。発射された2本の魚雷のうち、先の1本はかわすことができたものの、後の1本が艦橋より少し前方に命中します。
柳瀬千尋は潜水艦から発射された魚雷の被弾により戦死したと考えられる
このときの様子を「呉竹」の生存者で機関員だった流田武一・二等兵曹が証言しています。
「それが誘爆したから、艦橋の前から先が吹き飛んだ。ほやけ、私はちょうど、後部の探照灯のあたりにおったから、すべてが見えたんですよ。ぶわんぶわんと艦が動いたので、”うわっやられた”と思ったら、ドーンと。もう煙と潮と、何もかも吹っ飛んでましたわ」
門田隆将 「慟哭の海峡」 角川書店 193ページ より
「慟哭の海峡」によるとこの魚雷を被弾したことにより、「呉竹」の艦橋より前の部分は全て消え去り、柳瀬千尋少尉がいた対潜水艦探知室(水測室)のあたりは、跡形もなくなくなっていたとあります。
柳瀬少尉をはじめとして水測室の乗組員が一瞬にして全員戦死となったのは間違いないでしょう。実際、「呉竹」は艦長・吉田宗雄大尉以下140名が戦死し、生存者はわずか14名にすぎなかったそうです。
柳瀬千尋は特攻隊員だったのか?
インターネットの情報では、柳瀬千尋は人間魚雷「回天」の搭乗員で、特攻隊の隊員だったのではないかという情報があります。
柳瀬千尋は海軍特攻隊の隊員ではなかった ネット上の誤解を払拭するための情報
しかし「慟哭の海峡」に記されている証言を読むと、柳瀬千尋は海軍士官として死と隣り合わせの危険な任務に従事したものの、死そのものを命じられた特攻隊員ではなかったことがわかります。
「チイちゃんは死んだぞね」
と伯母は言った。
弟の千尋は海軍特攻隊に志願し、二十二歳で比島バーシー海峡に沈んだ。遺骨はなく骨壷の中には一片の木片が入っていた。
ぼくは泣かなかった。まったく見えないところで弟は消えてしまった。名前のように、弟は千尋の深海に沈んだ。やなせたかし「アンパンマンの遺書」 岩波現代文庫 69ページ より
この引用は1995年に柳瀬千尋の兄・やなせたかしさんが「アンパンマンの遺書」に記した文章です。
実は柳瀬千尋は、生前に「自分は海軍の特殊任務に就いている」ということだけを兄のやなせたかしさんに明かして、具体的な任務には告げなかったそうです。
「慟哭の海峡」はやなせたかしさんと柳瀬千尋の最後の面会の様子をこのように説明しています。
軍の機密は、たとえ親兄弟でも話すことはできない。千尋は、訪ねていった兄に自分の任務を詳しくは話していない。
しかし、極めて特殊な任務であることは話したようだ。特殊な任務ーそれは、そのまま「死」に近い任務のことである。門田隆将 「慟哭の海峡」 角川書店 188ページより
柳瀬千尋の「特殊な任務」という曖昧な表現が、やなせたかしさんの「弟は海軍特攻隊に志願した」という誤解につながったと考えられます。