柳瀬寛の死 最期の様子
朝ドラ「あんぱん」で竹野内豊さん扮する柳井寛のモデルとなった、やなせたかしさんの伯父・柳瀬寛の死因は心臓麻痺あるいは脳溢血とも言われています。
嘆き悲しむ妻の柳瀬キミ
やなせたかしさんの弟である柳瀬千尋さんがどのような最期を遂げたかを伝える「慟哭の海峡」では、やなせたかしさんの「恩人」とも言える伯父である柳瀬寛がどのように亡くなったかこのように伝えられています。
柳瀬千尋が高知高校の二年を迎えようという昭和十四年春、衝撃的な出来事があった。育ての親、寛が急死したのである。
柳瀬家の当主として、弟・清の忘れ形見である崇と千尋を引き取ったばかりか、末弟の正周を同居させて面倒も見ていた。文字通り、柳瀬家を一人で背負っていた大黒柱である。
その寛が、働き盛りの五十歳に突然、倒れ、あっという間に帰らぬ人となったのだ。心臓麻痺、あるいは脳溢血とも伝えられる。門田隆将「慟哭の海峡」 角川書店 130ページより
柳瀬寛の妻である、柳瀬キミにとっても寛の死による悲しみは深かったと言われています。柳瀬キミは京都医学専門学校(現在の京都府立医科大学)の在学していた寛を頼って、高知県南国市に嫁いできたからです。
伯父・柳瀬寛の死に目にあえなかったやなせたかし
柳瀬寛は柳瀬千尋にとって養父であるため、引用で書かれている文章の通り、柳瀬寛の死は衝撃的な出来事ですが、戸籍上、伯父と甥の関係を貫いたやなせたかしさんにとっても衝撃的な出来事でした。
東京高等工芸学校図案科の3年生だったやなせたかし
柳瀬寛が亡くなった1939(昭和14)年、やなせたかしさんは東京に住んでいて、東京高等工芸学校図案科(現在の千葉大学工学部デザイン科)の3年生として在学していました。
学校の最終学年として卒業制作に取り掛かっていた最中に「チチキトクスグカエレ」の電報を受け取ったと言いますそのときの様子がやなせたかしさんの自著である「人生なんて夢だけど」で、こう語られています。
ぼくは卒業制作の仕上げの最中でした。一日かけて大急ぎで不満足ながら完成させて東京駅で特急に乗車、現在なら航空便がありますが、当時は汽車しかなくて岡山、宇野、高松と乗り継いでいくのです。
やっとごめん駅に辿り着いて我が家の玄関をくぐったときには、既に棺の中に横たわっていました。ぼくは死に目に逢えなかったのです。
父の兄の伯父・寛は、ぼくの第二の父でした。弟の千尋は「兄貴遅い!」と責めましたが、ぼくには返す言葉がありませんでした。
「お父さんごめんなさい!」ぼくは棺にすがって泣きました。十年分の涙がいっぺんに出てしまったというぐらい泣きました。やなせたかし「人生なんて夢だけど」フレーベル館 84ページより
やなせたかしの伯父の死は他の著書でも言及
やなせたかしさんは、伯父・柳瀬寛の死の様子を、妻である小松暢さんが亡くなった後に出版した「アンパンマンの遺書」や、若くして海軍士官として亡くなった弟・柳瀬千尋への思いを綴った詩集「やなせたかしおとうとものがたり」でも語っています。
伯父・柳瀬寛の突然の死は、養子となった弟の柳瀬千尋だけでなく、やなせたかしさんにとっても生涯にわたって忘れることのなり衝撃的な出来事であったことがわかります。