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大関和 父 大関弾右衛門(おおぜきだんえもん) 黒羽藩の国家老

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目次

下野国・黒羽藩1万8,000石の国家老だった大関弾右衛門

さまざまエピソードをもつ大関弾右衛門

NHKの2026年前期朝ドラ「風、薫る」で主人公・一ノ瀬りん(見上愛)のモデルは、大関和(おおぜきちか)(1858~1932年)さんです。

その大関和さんの父は大関弾右衛門増虎(おおぜきだんえもんますとら)(1827~1876年)と言う人物で、弾右衛門は下野国にあった黒羽藩1万8,000石の国家老でした。

大関弾右衛門は明治維新の動乱期にあって、さまざまなエピソードを残した人物です。今回の記事ではそんな大関和さんの父である大関弾右衛門にスポットを当てた記事をご紹介します。

大関和 父 大関弾右衛門 参考文献

大関和さんの父・大関弾右衛門について参考とした文献は以下の2冊です。

これらのうち「明治のナイチンゲール 大関和物語」は朝ドラ「風、薫る」の原案となっています。

大関弾右衛門とはどんな人物だったのか?

明治維新前の大関弾右衛門

黒羽藩で代々、200石の禄を食んでいた大関弾右衛門は、1863(文久3)年に藩主・大関増裕(おおぜきますひろ)によって家老に登用されます。

黒羽藩は外様の小藩だったにも関わらず、大関増裕は江戸幕府内で講武所奉行・陸軍奉行・海軍奉行・若年寄などの要職を務めた優秀な人物でした。

そんな増裕によって黒羽藩の藩政改革にするにあたって見出されたのが、大関弾右衛門だったのです。幕府の軍事畑を歴任していた増裕は、小銃や大砲で使う黒色火薬の原料となる硫黄が藩内で産出されることに目をつけ、弾右衛門を硫黄製造の責任者とします。

増裕は硫黄を売って得られた資金で大砲や西洋の最新式銃などの購入。そのため黒羽藩は1万8,000石の小藩とは思えないほどの軍事力を備えることになりました。

戊辰戦争時の大関弾右衛門

しかし明治維新は北関東の小藩に悲劇をもたらします。

王政復古の大号令」が発せられた1867(慶応3)年、日本中のすべての藩は、新政府に味方するか(勤王)、それとも幕府に味方するか(佐幕)を迫られました。

黒羽藩において、藩主の増裕は幕府の要職を歴任したこともあり佐幕の方針をとるつもりでしたが、弾右衛門以外の家老たちの意見は朝廷に忠誠を尽くす勤王の方針に傾きます。

そこで増裕は弾右衛門だけに自分は責任をとって死ぬことを告げ、弾右衛門に後事を託すことに。藩論は勤王に統一されることになりますが、黒羽藩は戊辰戦争時には新政府軍の一部隊として、それまで親しい付き合いのあった会津藩を攻撃することになりました。

明治維新後の大関弾右衛門

1868(明治元)年8月、大関弾右衛門は黒羽藩の家老を辞職します。理由は亡き藩主・増裕の藩政改革が頓挫してしまったことに責任を感じてのことでした。

このとき弾右衛門はまだ10才だった大関和さんに向かってこう述べたと言われています。

「今日より家禄(二百石)は言うに及ばず、家も屋敷も返上し、明日からは乞食するかもしれぬが大関弾右衛門の娘に生まれし不幸と思いあきらめよ」(『基督者列伝』)

田中ひかる 「明治のナイチンゲール 大関和物語」 中央公論新社 11ページ

弾右衛門は武士を辞めて帰農することを決意したものの、江戸にいる増裕の夫人・於待(おまち)に強く慰留され、黒羽藩の家知事として留任。

のちに家老時代に硫黄の製造に深く関わっていたことから、弾右衛門は妻の哲や子供たち(和・衛・釛)と暮らしつつ、南東北地方で硫黄の採掘事業に従事することになりました。

大関弾右衛門の死

大関和さんの少女時代はこうした父の姿を見て、ノブレス・オブリージュ(高貴なる者の義務)を身につけていったと考えられます。

1876(明治9)年に大関和さんの嫁入り先として、旧・黒羽藩の士族である渡辺福乃進豊綱(わたなべふくのしんとよつな)との縁談をまとめると、弾右衛門は病気で床に伏せるようになります。

故郷の黒羽に戻って静養するも、ついに体調を取り戻すことはできませんでした。こうして大関弾右衛門は50才の若さで亡くなります。

ちなみに後年、大関弾右衛門は硫黄採掘の事業が認められて、政府から1918(大正7)年に「正五位下」の位階が死後追贈されました。

父・大関弾右衛門に関わる大関和の看護エピソード

「家老の娘」だった大関和

このように出自をたどると、父・大関弾右衛門の経歴から大関和さんは「家老の娘」であったことが分かります。

のちに日本の最初期のトレインドナースとなった大関和さんは「家老の娘」であったことを好まれ、特に上流階級からの派出看護を依頼されることが多かったようです。

大関和 看護師としてのプロフィール どんな看護をしたのか」と言う記事の「大関和の看護プロフィール(有名人編)」という項目を見ると、看護の依頼人には明治政府の高官や大臣などを歴任していた人たちが含まれていることが分かります。

大関弾右衛門の知り合いだった長田銈太郎の看護

大関和さんに派出看護を依頼した政府高官たちの中でも、かつて外交官だった長田銈太郎は、大関弾右衛門と旧知の人物でした。

大関弾右衛門が黒羽藩で採れる硫黄の製造販売に関わっていたことから、長田銈太郎は弾右衛門がフランス人と会話をするためにフランス語の通訳をしていてくれたのです。

長田銈太郎は生来からの癇癪持ちで、病床にあっても周囲の言うことを聞かず家族や書生たちには当たり散らし、看護のためにやって来た大関和さんのことも無視していました。

しかし何気ない会話の中で大関和さんが黒羽藩の家老・大関弾右衛門の娘であることを知ると、急に態度を改めて養生に努めたと言われています。

「君は、生まれはどこか」
「栃木県です」
「なに、栃木県だと。栃木県はどこだ」
「那須郡黒羽です」
「那須郡黒羽だ、あすこには旧幕時代、若年寄の大関肥後守の家来に、大関弾右衛門という人があったが知っているか」
「はい、その娘です」
「なに、弾右衛門殿の娘だ、道理で大関姓を名乗っておると思った。そうか、御家老弾右衛門殿にフランス人との通訳をしてあげたことがあった。その娘ごが看護婦になったのか、それにしても不思議なめぐり合わせであるのう」

亀山美知子 「大風のように生きて: 日本最初の看護婦大関和物語」 ドメス出版 49ページから50ページ

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