物静かな性格であった大関(川原)釛さん
4人の兄弟姉妹がいた大関和さん
NHKの2026年前期朝ドラ「風、薫る」で主人公・一ノ瀬りん(見上愛)のモデルは、大関和(おおぜきちか)(1858~1932年)さんです。
大関和さんは明治時代に「トレインドナース」となり、明治・大正期を通じて偏見の多かった看護婦という職業の確立に多大な貢献をされました。その活躍から「明治のナイチンゲール」とも呼ばれています。
その大関和さんは姉1人、弟2人、妹1人の合計で4人の兄弟姉妹がいました。今回の記事では大関和さんの兄弟姉妹の中でも妹である大関(川原)釛(おおぜき/かわはらこく)さんを紹介します。
大関和 妹 大関和の兄弟姉妹 参考文献
大関和さんの妹である大関(川原)釛さんに関する内容について参考とした文献は以下の2冊です。
これらのうち「明治のナイチンゲール 大関和物語」は朝ドラ「風、薫る」の原案となっています。
大関釛さんとはどんな人物だったのか
大関弾右衛門・哲夫妻の三女として誕生
大関釛さんは、1866(慶応2)年に大関弾右衛門とその妻・哲の三女として誕生します。
大関釛さんから見て姉には八千代(やちよ)さんと和さんが、兄は復彦(ふくひこ)さんと衛(まもる)さんがいます。釛さんは五人兄弟の末っ子だったのです。
釛さんの性格は物静かで、姉の大関和さんの性格とは正反対であったと言われています。
烏山の川原健次郎に嫁ぐ
釛さんは黒羽で家族と暮らしていましたが、1881(明治14)年に大関和さんが嫁ぎ先の渡辺家を離縁した関係で、姉・母・甥の六郎(ろくろう)・姪の心(しん)とともに上京します。
その後、1884(明治17)年、栃木県烏山町(現在の那須烏山市)に住んでいた川原健次郎さんと結婚し、諭(さとし)さんと博巳(ひろみ)さんの2人の男の子を出産します。
1907(明治40)年には釛さんの兄である、復彦さんが結核で亡くなったため、大関和さんの依頼により遺児の増博(ますひろ)さんを烏山で預かることになります。
博巳を伴って上京
1909(明治42)年に川原健次郎さんが亡くなった後、1912(明治45)年ごろ、釛さんは息子の博巳さんを伴って上京。博巳さんを東京専門学校(現在の早稲田大学)の英文科に入学させるためです。
このとき釛さんと博巳さんは姉である大関和さんの家に留まって、釛さんが大関家の家事を一手に引き受けます。
川原博巳と鹿内貞の結婚
1921(大正10)年、釛さんの息子である川原博巳さんは、鹿内貞(しかうちてい)さんという女性と結婚。鹿内貞さんは東京看護婦学校を卒業するにあたって、大関和さんが世話をした女性でした。
温和でしっかりした性格であることを見込まれた鹿内貞さんは、大関和さんに甥にあたる川原博巳さんの嫁になってほしいと泣いて頼まれます。
突然の申し出に気が動転した鹿内貞さんですが、結局は大関和さんに押し切られて、新聞記者となっていた川原博巳さんと結婚するとにしました。
ちなみに貞さんは1929(昭和4)年に大関和さんから「大関看護婦会」の後継者に指名され、1年間だけ会の運営に携わることにもなります。
晩年の大関和を看取る
1912(明治45)年に烏山から東京の大関家に移ってから、釛さんは大関和さんのもとに留まり続け、和さんの最期も看取ることになります。
「大風のように生きて: 日本最初の看護婦大関和物語」には、半身不随となった大関和さんの最晩年にあった他愛もない会話として、このようなやり取りがあったと記述されています。
なお会話中に「サダ」とは釛さんのことです。
一年も経つと、和は両手が不自由になりはじめた。食事も海苔を巻いたおむすびが多くなった。
「先生、はい、アーン」
木下操が和の口におむすびを運ぶ。子どもに返ったように和は操の言葉に従う。操が和の食事の手伝いを終えて帰った途端、和は釛に向かっていう。
「おサダさん、御飯、まだですか」
「先刻、食べたばっかりでしょ」
「いいえ、何もいただいてませんよ。おサダさん、早く御飯にしてちょうだい」
「姉さんったら、操さんに食べさせて貰ったでしょ、忘れちゃったの?」
「そんな意地悪言わないで。お腹空いたわ」
年老いた姉妹の軽い口喧嘩がはじまる。それでも釛は姉の和の世話をし続ける。