新島八重の看護婦としての貢献
大関和と新島襄の妻・新島八重
NHKの2026年前期朝ドラ「風、薫る」で主人公・一ノ瀬りん(見上愛)のモデルは、大関和(おおぜきちか)(1858~1932年)さんです。
大関和さんは明治時代に「トレインドナース」となり、明治・大正期を通じて偏見の多かった看護婦という職業の確立に多大な貢献をされました。その活躍から大関和さんは「明治のナイチンゲール」とも呼ばれています。
一方、大関和さんが活躍した時代には「日本のナイチンゲール」と呼ばれた女性がいました。同志社大学の創立者である新島襄の妻・新島八重(にいじまやえ)(1845~1932年)です。
篤志看護婦としての新島八重
新島八重が「日本のナイチンゲール」と言われる所以は、1894(明治27)年に勃発した日清戦争において、広島の陸軍予備病院において、4か月の間、日本赤十字社から派遣された篤志看護婦として、傷病者の看護に従事したことによるものです。
このとき新島八重は40人の看護婦を率いる取締役として、敵味方の区別なく傷病者の看護にあたりました。この功績が認められて、1896(明治29)年に皇族以外の女性として初めて叙勲を受け勲七等宝冠章を綬章します。
その後、篤志看護婦人会の看護学修業証を得て看護学校の助教を務め、明治37年(1904年)の日露戦争時には、大阪の陸軍予備病院で2か月間篤志看護婦として従軍。その功績によって勲六等宝冠章も授与されます。
ちなみに2013年に放送されたNHK大河ドラマ「八重の桜」の最終回「いつの日も花は咲く」では、綾瀬はるかさん扮する新島八重が、篤志看護婦としての活躍により勲七等宝冠章を授賞したことが描写されています。
大関和と新島八重の関係について
直接の交流はなかったと思われる大関和と新島八重
大関和さんの事績を著した「大風のように生きて: 日本最初の看護婦大関和物語」や、「明治のナイチンゲール 大関和物語」では新島八重の名前は何度か見られるものの、大関和さんと新島八重が直接交流したという話はありません。
しかし実在の大関和さんは、明治維新の際に黒羽藩と対立した会津藩出身の新島八重の存在と、明治時代以降の活躍は知っていたと考えられます。
「明治のナイチンゲール 大関和物語」でも大関和さんのセリフとして、新島八重が会津戦争において最新式のスペンサー銃を担いで新政府軍の兵士たちを倒していった様子は、黒羽藩でも語り草となっていたという場面があります。
このセリフが実在した大関和さんの口から発言されたかはともかくとしても、篤志看護婦として叙勲を受けるほどの人物を、同時代のトレインドナースであった大関和さんが知らなかったはずはないでしょう。
フローレンス・ナイチンゲール記章を断っていた大関和
ところで晩年の大関和さんには日本赤十字社の「フローレンス・ナイチンゲール記章」を授与させようという動きがありました。
大関和さんが生涯の「師」と仰ぐ牧師・植村正久さんの弟子である三松俊平さんという人物との間にあった、このようなやりとりが残っています。
「大関さん、ナイチンゲール記章に推薦したいんですよ、どうです?君はずっと昔から日本のナイチンゲールに擬せられた人ですからねぇ」
「とんでもない。まっぴらに願いますよ。私はそんな売名的なことは大嫌いなんでございます。そんなことをしたら、せっかく積んだはずの天国の宝も皆失ってしまうことになります」
和はきっぱり断った。三松は改めて大関和の人格を見てとったのだった。
金銭にこだわりがなかった大関和さんは、名誉欲にもとらわれていなかったことを表すエピソードでしょう。
補足: 新島八重の叙勲について
「フローレンス・ナイチンゲール記章」を断った大関和さんの話を持ち出すと、政府から叙勲を受けた新島八重は名誉欲にかられていた人物と勘違いするかもしれません。
果たして新島八重が名誉にこだわった人物であったかどうかは分かりません。しかし、当時の新島八重には政府から叙勲を受けなければならない理由は十分にあったでしょう。
明治維新の戊辰戦争を通して、長州藩や薩摩藩を中心とした新政府から「賊軍」の汚名を着せられた旧・会津藩は、藩主・松平容保(1836~1893年)を筆頭として藩全体の名誉を回復する必要がありました。
会津藩出身の新島八重が、日清戦争に貢献した篤志看護婦として政府から勲章を受けることは、新島八重が個人的な名誉を得たというよりも、旧・会津藩関係者たちの名誉回復に貢献したと考えられます。
大関和と新島八重 参考文献
大関和さんと新島八重の関係に関す記事を書くにあたって参考とした文献は以下の3冊です。
これらのうち「明治のナイチンゲール 大関和物語」は朝ドラ「風、薫る」の原案となっています。