朝ドラ「風、薫る」に登場する「派出看護婦会(はしゅつかんごふかい)」とは、看護師(看護婦)を患者の自宅や病院へ派遣するための組織です。
明治時代、日本では急速な都市化や対外戦争の影響でコレラや赤痢など感染症の流行が広がり、専門教育を受けた看護婦の需要が急速に高まっていました。
そうした中で誕生したのが「派出看護婦会」です。
大関和や鈴木雅も、派出看護婦会の運営を通じて日本近代看護の発展に大きく貢献しました。
▼要点まとめ
- 派出看護婦会=看護婦派遣組織
- 明治時代に誕生した近代看護制度
- 自宅看護・病院看護を支える役割
- 大関和・鈴木雅が運営に関与
- 「風、薫る」は近代看護史がベース
本記事では、派出看護婦会が「いつ・どこで・なぜ・どのように」誕生したのかをわかりやすく解説します。
「風、薫る」の時代背景や近代看護制度について詳しく知りたい方は、下記の記事も参考になります。
→ 風、薫る 時代と時代背景|明治時代にコレラや赤痢が流行した“近代看護黎明期”
→ トレインドナースとは?意味・歴史・明治時代の看護制度をわかりやすく解説
結論|派出看護婦会とは“看護婦を派遣する近代看護組織”のこと
派出看護婦会とは、病院や患者の自宅へ看護婦(看護師)を派遣するために設立された組織です。
明治時代の日本では、コレラや赤痢など感染症が流行し、病院だけでは看護需要に対応できない状況が続いていました。
そこで必要となったのが、専門教育を受けたトレインドナースを派遣する「派出看護婦会」です。
特に鈴木雅が設立した「慈善看護婦会(後の東京看護婦会)」や、大関和が経営した「大関看護婦会」は、日本近代看護史において重要な存在として知られています。
「風、薫る」のモデル人物について詳しく知りたい方は、下記の記事も参考になります。
→ 一ノ瀬りんのモデルは誰?大関和の生涯・年表・実在人物を解説
→ 大家直美のモデルは誰?鈴木雅の生涯・年表・実在人物を解説
トレインドナースと派出看護婦会について
日本で最初に個人経営の「派出看護婦会」を設立した鈴木雅
NHK朝ドラ「風、薫る」の主人公である大家直美(上坂樹里)のモデルとなった鈴木雅(すずきまさ)(1857~1940年)さんは、明治時代の日本においてトレインドナースとして最初に個人経営の派出看護婦会を設立した人物です。
今回の記事ではその派出看護婦会がいつ・どこで・なぜ設立され、そしてどのように広がっていったのかを説明いたします。
トレインドナースとは何か
「トレインドナース」とは「正規に訓練した看護婦」のことを指します。
現代の日本において看護師になるためには、必ず看護師国家試験の受験資格を得られる学校(看護大学・看護短期大学・看護専門学校・看護高等学校)を卒業して、看護師国家試験に合格する必要があります。いわば現代の看護師は全員が「トレインドナース」です。
しかし、大関和さんが「トレインドナース」になった明治時代半ばには、現代のような資格制度も社会的認知もありません。それどころか「看護婦」は「看病婦」と呼ばれ、賎業として世間から蔑まれる存在でした。
なおトレインドナースについての詳細な説明は下記の記事を参考にしてください。
派出看護婦会・派出看護とは何か
「派出看護婦会」とは主に明治時代から昭和初期に存在した医療サービス団体のことで、正規の看護婦資格を持ったトレインドナースを個人宅に派遣して、患者に対しさまざまな看護サービスを提供していました。
「派出看護」のサービスは現代の医療保険制度における「訪問看護」(厚生労働省PDFファイル)と似ています。
例えば病気や負傷のために寝たきりになってしまった患者のために、床ずれで褥瘡などができないように定期的に体位変換を行うことは、明治時代のトレインドナースも現代の看護師もやっていることは同じです。
ただし現代の「訪問看護」では、患者の自宅に看護師が派遣される前に、必ず医師による「訪問看護指示書」が必要です。
「訪問看護」を希望する個人は、医師から発行された「訪問看護指示書」を訪問看護ステーションに持ち込まなければなりません。
派出看護婦会はいつ・どこで・なぜできたのか
派出看護婦会はいつ・どこでできたのか?
個人経営の派出看護婦会が日本で初めて設立されたのは、上述したように明治時代のトレインドナースであった鈴木雅さんの手によるもので、1891(明治24)年11月のことでした。
鈴木雅さんは自身が設立した派出看護婦会を「慈善看護婦会」と名付け、事務所を東京・本郷森川町一番地一九〇号に構えます。
ちなみに東京慈恵医院(現在の東京慈恵医科大学附属病院)のような大病院では、鈴木雅さんが「慈善看護婦会」を設立する前から、看護婦を派出することがすでに行われていました。
派出看護婦会はなぜできたのか
鈴木雅さんが「慈善看護婦会」を設立したころの日本において、特に上流階級の家庭では、患者本人が病気のために入院することは一般的ではありませんでした。
医師は患者宅に往診し、看護婦(トレインドナース)は患者のために連日にわたって寝泊まりするケースが多かったようです。「大風のように生きて 日本最初の看護婦 大関和物語」では当時の派出看護婦の様子をこのように説明しています。
この当時、いわゆる名家と言われるような上流階級では病院に入院することは少なく、看護婦も自宅へ聘して療養するということが一般的になっていた。医師の方は通って来て病人の容態を診るだけだが、看護婦の方は療養上の世話をするのだから、その家にずっと詰めていなければならない。場合によっては数ヶ月間もその家に寝泊まりすることだって起きる
亀山美知子 「大風のように生きて 日本最初の看護婦 大関和物語」 ドメス出版 85ページより引用
明治時代の半ばごろから派出看護のニーズがあることはそれなりに見込まれていましたが、その需要が爆発的に増加したきっかけは、1894(明治27)年から1895(明治28)年にかけて行われた日清戦争です。
日清戦争自体は日本の勝利に終わりましたが、中国大陸に出征した兵士たちが帰国すると赤痢やコレラなどの伝染病(感染症)が国内に蔓延するようになります。
もし商家で伝染病の患者が発生すれば、誰かがその看護に手を取られるます。いきおい商売に手がつかなくなり、看護婦の手を借りなければならないという状況が多発していたようです。
鈴木雅さんが派出看護婦会を設立した理由
「大風のように生きて 日本最初の看護婦 大関和物語」では鈴木雅さんが個人経営の派出看護婦会である「慈善看護婦会」を立ち上げた理由については詳しく説明していません。
当初、桜井女学校(現在の女子学院)の経営者であるマリア・T・ツルーがアメリカへ帰国するに合わせて、アメリカ留学をするつもりだったのが、人力車にはねられたことで渡航を断念。そのときに派出看護婦会の設立を思い立っただけ述べられています。
一方、朝ドラ「風、薫る」の原案となった「明治時代のナイチンゲール 大関和物語」によると、鈴木雅さんは人力車にはねられたことに加え、横浜の貧民街で天然痘が蔓延している目の当たりにする様子が詳しく描かれています。
ウィリアムを手伝いながら雅は、この修羅場を放り出してアメリカへは発てないと考える。患者は増える一方なので、医療者は一人でも多い方がいい。それに、種痘を受けているとはいえ、患者たちと濃厚に接触してしまった以上、絶対に感染していないとは言えない。感染が疑われる状態で、船に乗るわけにはいかない。
田中ひかる. 明治のナイチンゲール 大関和物語 中央公論新社 (pp. 152-153). (Function). Kindle Edition. より引用
赤痢・コレラ・天然痘といった感染症が当時の日本で猛威をふるっていたことが、鈴木雅さんを派出看護婦会設立の道へと歩ませたきっかけとなったと考えられます。
派出看護婦会はどのように広がっていったのか
派出看護のサービスを全ての層に行き渡らせようとした鈴木雅
上述したようにすでに上流階級の家庭において派出看護のサービスは認知されていました。鈴木雅さんの狙いは派出看護のサービスを庶民の層にまで広げるものです。
そのため「慈善看護婦会」では派出看護としては割安な派出料金を定め、貧者については無料で看護を行うことも会則で定められていました。
「大風のように生きて 日本最初の看護婦 大関和物語」82ページの記述に基づいて「慈善看護婦会」の派出料金を表にすると以下の通りとなります。
| 看護婦の等級 | 1日の派出料金 (伝染病以外の場合) | 1日の派出料金 (伝染病の場合) |
|---|---|---|
| 一等 | 70銭 | 1円 |
| 二等 | 50銭 | 75銭 |
| 三等 | 30銭 | 50銭 |
| 四等 | 20銭 | – |
ちなみに当時、新聞1部の値段は1銭(1円の100分の1)、かけそば一杯が1銭から2銭程度、一般労働者の日給は30銭〜50銭ほどでした。
ただ「慈善看護婦会」は「慈善」つまり「無料」であることが強調されすぎる面があり、慈善看護は経営を圧迫する要因となります。
そこで鈴木雅さんは、1893(明治29)年に仕方なく会の名前を「東京看護婦会」と改称。このとき会の住所地は本郷森川町から神田猿楽町に移転しています。
需要過多につき悪質な派出看護婦会が目立った
明治時代の半ばごろ、鈴木雅さんの個人的な努力では及ばないほど、派出看護サービスに対する需要は供給を大きく超えていました。
鈴木雅さんのように看護学校を卒業し、正規の看護婦資格を持つ人材が増える一方で、膨大な需要を見込んで素人同然の女性を患者宅に送り込んで患者の看護をさせる悪質な派出看護婦会も同時に現れ始めます。
こうした状況に対応するために鈴木雅さんは「東京看護婦会」に附属する看護学校である「東京看護婦講習所」を設立。
その講師として桜井女学校(現在の女子学院)内の看護婦養成所を同期で卒業した大関和(朝ドラ「風、薫る」の一ノ瀬りんのモデル)さんを講師として招聘します。
さらにその大関和さんは「大日本看護婦婦人矯風会」という業界団体を設立。派出看護婦業界に自浄作用を促す一方で、内務省衛生局長・後藤新平に悪質な派出看護婦会の取り締まりを行ってもらうよう行政に対する陳情にも出向くようにもなりました。
派出看護婦会は大正時代末から昭和初期にかけて下火に
こうした良質な看護婦の供給不足は大正時代の前半ごろまで続きますが、大正時代の末年には逆に全国各地の病院で、看護婦たちが「労働者」としての権利を求めストライキを起こし始めます。
明治時代にトレインドナースとなり看護婦の職業は「聖職」だと考えていた大関和さんにとって、看護婦たちが権利を求めてストライキを起こすなどとは考えられない事態でした。
しかしそれと同時に大正時代から昭和初期にかけて派出看護婦業界は斜陽産業に。鈴木雅さんから「東京看護婦会」の経営を受け継いでいた大関和さんは1932(昭和7)年に亡くなります。
風、薫る 全話あらすじと最終回までのネタバレ
風、薫る 全話あらすじ
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風、薫る ネタバレ最終回と全話あらすじ
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参考文献
今回の記事を書くに当たって以下の2冊の文献を参考にしています。なお「明治のナイチンゲール 大関和物語」は朝ドラ「風、薫る」の原案とされています。

