「都会嫌い」の小泉八雲が東京で暮らし始めた理由
ばけばけ 第24週(3月16日〜20日)から「東京編」がスタート
NHKの2025年前期朝ドラ「ばけばけ」は、2026年3月16日月曜日から放送される第24週から「東京編」が始まります。
「ばけばけ」の「東京編」と聞くと、トキ(髙石あかり)が松江の松野家を飛び出した婿の銀二郎(寛一郎)を追いかけてきた第4週「フタリ、クラス、シマスカ?」(2025年10月20日〜24日放送)を思い出すかもしれません。
しかし第24週から始まる「東京編」は、トキと八雲(トミー・バストウ)が東京に住み始めて年月が経過しているというところからお話が始まります。
小泉八雲は1896(明治29)年9月6日に東京市牛込区市ヶ谷富久町に転居
なぜ朝ドラ「ばけばけ」で「東京編」が描かれるのでしょうか?
その理由を考えると、実在した小泉八雲が1896(明治29)年9月7日に、それまで住んでいた神戸から東京市牛込区市ヶ谷富久町(現在の東京都新宿区富久町)に引っ越してきたからでしょう。
ただ、松江のような旧き良き日本の面影を色濃く残す松江のような土地を愛する小泉八雲が、文明開化を突き進み、かつての姿を消していく東京での暮らしをなぜ選んだのでしょうか?
小泉八雲が東京行きを決断した理由は、当時の東京帝国大学文科大学(現在の東京大学文学部)関係者の並々ならぬ周旋があったことによるものです。
熊本に転居したのちの小泉八雲の動向
作家に専念したくて熊本から神戸に転居していた小泉八雲
朝ドラ「ばけばけ」で描写されるかどうかは分かりませんが、史実における小泉八雲は1894(明治27)年10月10日から1896(明治29)年9月6日まで神戸に住んでいました。
熊本から神戸に引っ越した理由は、作家の仕事に専念するためです。熊本の第五高等中学校で小泉八雲が受け持った英語の授業数は週27時間もあり、著作の方に思うように時間を割くことができませんでした。熊本時代における小泉八雲の著作は「東の国から」の一冊だけでした。
そこで小泉八雲は熊本の第五高等中学校を退職することを決意。「神戸クロニクル社」の招聘に応じ、毎日一欄ずつ記事を掲載する約束し、その月給として100円を受け取ることにになります。
もっとも、「神戸クロニクル社」が八雲に支払う100円は、熊本の第五高等中学校が支払っていた月給200円の半額。八雲はどうしても著述業に専念したかったようです。
八雲にとって神戸は熊本よりも気に入らない土地だった
しかし当時の神戸は、小泉八雲にとって松江のように好きになれる土地ではありませんでした。神戸では旧き良き日本の面影はまるで見当たらず、目にするものといえばヨーロッパ文明の模倣ばかり。
熊本に慊(あきた)らないへルンに神戸の気に入るわけはなかった。へルンにとっては神戸は旧日本の面影の最も見えない醜い欧州文明の模倣ばかりの新開地であった。盆踊のような旧式な物は一切外人の抗議によってか、日本官憲の遠慮によってか勿論見る事はできなかった。外人はここでは最も尊大に、日本人はここでは最も卑屈に見えた。
田部隆次 小泉八雲 ラフカディオ・へルン(中公文庫) 188ページ
そんな小泉八雲に1895(明治28)年12月6日、転機がおとずれます。
東京帝国大学文科大学で学長をしていた、外山正一(のちに東京帝国大学総長を歴任)が、同大学の名誉教授で八雲の親友でもあるバジル・ホール・チェンバレンに八雲が英文学の教授に就任してもらえるよう依頼。
東京に住むことを決断した小泉八雲
帝大教授の就任にあたって八雲が出した「3つの条件」
外山正一からの知らせを聞いたチェンバレンは早速、八雲に対して帝国大学から英文学教授就任の依頼が来ていることを伝えます。
熊本の学校で週27時間も授業を受け持たされ、座って休憩を取ることができない日もあった八雲にしてみれば、いくら帝国大学が高額の月給と教授のポストを用意してくれたとしても、すすんで引き受ける気にはなれなかったようです。
そこで八雲はチェンバレンを介して外山正一に対して、「これらの条件を飲んでくれるなら引き受ける」と「3つの条件」を出します。
- 国籍の如何によって俸給を変えないこと
- 雇用契約期間の間は必ず雇われること
- 助手や助教授には自分を妨害するような人間を入れないこと
学長・外山正一からの手紙で東京行きを決断をした小泉八雲
1895(明治28)年12月12日、外山正一は八雲の出した3つの条件を回答するために八雲に対して直接手紙を送ります。
一、帰化して日本臣民となったために俸給に関係するというわけは分かりませんが、外人の教授が日本臣民となった例は全く新しいので、この点に関しては今少し調査を経た後でなければ、何とも申し上げかねるが、私どもにまだ分からない事はこの点ばかりではありません。とにかくそのような点に関して必要なる調査をしてその結果をお知らせ致します。
田部隆次 小泉八雲 ラフカディオ・へルン(中公文庫) 207ページ
外山正一が小泉八雲に宛てて出した手紙によると、当時の東京帝国大学では外国籍から日本人に帰化した人物が教授になった例がなかったことなどから、必ずしも小泉八雲が出した3つの条件を完全にクリアした内容とは言えませんでした。
しかし小泉八雲が望む条件について、外山正一が誠心誠意、答えようとする姿勢は読み取れます。実際、小泉八雲は外山正一から受け取った12月12日付の手紙で東京帝国大学文科大学英文学教授の職を引き受けることを決めたようです。
帝大における八雲の受け持ち授業時間は五高時代の半分以下に
ちなみに外山正一は小泉八雲に対して、同年12月20日付でさらに手紙を送っています。小泉八雲の出した「3つの条件」の中には受け持ちの授業数のことは触れられていなかったので、そのことを安心させる内容でした。
外山正一は具体的に1週あたりの受け持ち時間は、月給は熊本時代の2倍である400円であるにもかかわらず、12時間程度であると伝えています。
先の手紙に、時間の点について明瞭に書かなかった事を残念に思います。一日四時間は最大限でしょうが、どこの大学教授でも、そんなに働いて貰えるわけは無い。君の場合において実際の受け持ち時間は一日に二時間すなわち一週十二時間以上になることはありますまい。勿論多少の「直し物」もありましょう。それは教師に覚悟して貰っています。
田部隆次 小泉八雲 ラフカディオ・へルン(中公文庫) 211ページ
ここまで外山正一が小泉八雲に宛てて出した手紙の内容は、東京帝国大学文科大学で小泉八雲に師事していた英文学者・田部隆次の著作である「小泉八雲 ラフカディオ・へルン」から引用しています。
その田部隆次は著作の中で、外山正一がいかに胸襟を開いて小泉八雲に接していたことがわかると指摘。
また小泉八雲の方も外山正一をして「非常に親切な、そして率直な人です」と、日本第一の親友である西田千太郎(「ばけばけ」の錦織友一のモデル)への手紙に書き送っています。
このように、小泉八雲は当時の東京帝国大学文科大学・学長の外山正一との良好なコミュニケーションを経て、帝国大学教授の職を引き受けるために、1896(明治29)年9月7日から東京に居を構えることになりました。
ばけばけ 東京 なぜ 関連記事と参考文献
ばけばけ 東京 なぜ 関連記事
朝ドラ「ばけばけ」の東京編が描かれる第24週と、最終回を含む第25週については下記の記事が参考になるでしょう。
また「ばけばけ」全体のお話は以下の記事が参考になります。合わせて参考にしてください。
ばけばけ 東京 なぜ 参考文献
今回の記事は以下の書籍を参考文献としています。
