記事の要約
風、薫る 美津のネタバレと史実まとめ
- 朝ドラ「風、薫る」の一ノ瀬美津(水野美紀)のモデル・大関哲は2人の孫・大関六郎さんと大関心さんに先立たれていた
- 1900(明治33)年、大関心さんが結核で死去
- 1910(明治43)年、大関六郎さんがマラリアで死去
- 大関哲の死後、1917(大正6)年11月に夫・大関弾右衛門増虎の名誉が回復される
大関哲の史実エピソード(明治時代後期)
2人の孫に先立たれてしまった大関哲
1880(明治13)年に大関和さんが離婚したことをきっかけに、大関家の人たちは栃木県の黒羽から東京に移住。それ以来、大関和さんは大関家の家計を支える「大黒柱」として外で働き始めます。
大関和さんが外で働いている間、まだ幼かった長男・大関六郎さんと長女・大関心さんの養育にあたったのは、大関和さんの母である大関哲でした。
大関哲と大関六郎さん・大関心さんの関係は「祖母と孫」の関係にあたりますが、大関哲はその孫たちに先立たれてしまうという不幸に直面することになります。
大関心の死
1900(明治33)年、大関心さんは結核のために20才という若さで亡くなります。
慈恵看護婦教育所(現在の慈恵看護専門学校)で座学の授業を受けているときに、風邪の症状を訴えて病院を受診したところ結核と診断され、その4ヶ月後には亡くなるというあっけないものでした。
朝ドラ「風、薫る」の原案となった「明治のナイチンゲール 大関和物語」では、大関心さんの葬儀が行われていたときの大関哲の様子についてこのように描写しています。自ら養育した孫が自分よりも先に亡くなったショックで大切な思い出を忘れてしまったようです。
和に代わり、心を育てた哲の心痛も深かった。少し前から物忘れが目立つようになっていたが、心の死を境に一気に悪化する。葬儀のとき六郎が「祭壇に心が好きだったパン・ペルデュを供えてやりたい。おばあ様、作ってよ」と言うと、しばらく考えてから哲が発した言葉は「それは何ですか」であった。
パン・ペルデュの作り方を鄭永慶から教わったのは和だったが、それを幾度となく子どもたちには作ってやったのは哲である。
大関六郎の死
大関心さんの死から約10年後、大関六郎さんは、東南アジアで聖書を販売する仕事があるということで、ジャワ島に渡航。しかし1910(明治43)年7月6日に、大関六郎さんは現地でマラリアに感染し死去。享年33。
七月に入って一週間も経ったころだろうか、一通の電報が届いた。稲妻のように和の全身を不安が駆けめぐる。震える手で電報を開くと「ロクロウ、七ツキ六ヒシス」という文字が飛び込んできた。六郎は馴れない異国の地で病に倒れたのだった。まだ三三歳。
大関哲は大関心さんに続いて、自らが養育した孫にまたしても先立たれてしまうと不幸に巡り合うことになってしまったのです。
大関哲の史実エピソード(大正時代)
亡き夫・大関弾右衛門増虎の無念を訴えた大関哲
1916(大正5)年のある日、80才は過ぎたであろう大関哲の元に、小林華平と名乗る年輩の男性が訪問。小林華平は旧・黒羽藩で大関弾右衛門が、国家老として藩内で硫黄の採掘事業を指揮していた頃、その下で働いていたと言うのです。
実はこの小林華平は、1909(明治42)年に「大関肥後守増裕公略記」を刊行している人物で、そのことがきっかけで田辺実明という男性から頼まれて、当時の黒羽藩の事情をインタビューしにきたのでした。
そのときの大関哲の様子について「大風のように生きて: 日本最初の看護婦大関和物語」ではこのように伝えています。
哲は小林のことを覚えていたようで、懐かしそうな面持ちで小林の話を聞いていたが、小林が田辺に増裕の死について書いたものも与えたと述べるにおよんで涙ながらに話し出した。
「私どもは五〇年来、緘黙(かんもく)を守って一言も申しませんでしたが、もう、この期におよんでは御自害なさったことについて秘密にすることもございません。私の申すことで、かえって賢璋院様(増裕)の名誉を回復できるのしたら、今は何を隠すべきでしょう。
実は御自害の前々夜、亡夫増虎一人をひそかに召されておおせになったというのは…」
哲は、かつて増裕が直接弾右衛門に与えた書状も差し出しながら、当時のことを話し続けた。しかし、涙を抑えようとして遂には声もなくなってしまった。
この大関哲が小林に話をしたことがきっかけで、今度は依頼主の田辺実明自身が哲を訪問。哲はその田辺に対しても戊辰戦争後に黒羽藩の中で夫・弾右衛門が受けた辱めとその無念さを訴えるのでした。
大関哲の死後に大関弾右衛門増虎の名誉が回復された
なお、大関哲が小林華平と田辺実明のインタビューを受けたという話には後日談があります
田辺実明は大関哲の無念を晴らすために、雑誌「大日本」において3回の連載にわたって第15代藩主・大関増裕とその国家老であった大関弾右衛門増虎の事績について紹介。
さらに1918(大正7)年11月には、雑誌「大日本」に大関増裕と大関弾右衛門増虎の事績が掲載されたことをきっかけとして、大関増裕と大関弾右衛門増虎に対して位階が追贈されることになりました。
1867(慶応3)年12月の自決の直前に従五位下であった大関増裕に対しては正四位を、明治維新後も引き続き硫黄採掘の事業を行っていた大関弾右衛門増虎に対しては正五位が授けられることに。
大関増裕と大関弾右衛門に対して位階を追贈するという報せを大関和さんが受けたときには、残念ながら大関哲はすでにこの世の人ではありませんでした。
しかし「大風のように生きて: 日本最初の看護婦大関和物語」ではもし大関哲が生きていれば、どれほど喜んであろうかと説明されています。
一九一八(大正七)年のことである。和が積年の願いであった父の敬愛する藩主大関肥後守増裕の増位が許される、という報に接したのだった。すでに還暦を迎えていた和にとっては、半世紀の間の恨みと悔しさがすべて報われるときがきたのである。しかも父弾右衛門にも沙汰があった。哲はすでに他界していたが、この報を知ったらどれだけ喜んだことであろうと思うと、和は一人涙にむせぶのだった。
大関哲の死について
なお、今回の記事を書くにあたって参考として文献である「明治のナイチンゲール 大関和物語」と「大風のように生きて: 日本最初の看護婦大関和物語」では、大関哲の死やその死因などについて直接言及している描写はありません。
ただし上記で引用した「大風のように生きて: 日本最初の看護婦大関和物語」の記述によると、大関哲が死去した時期は1916(大正5)年1月から1917(大正6)年11月の間であると推測されます。
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風、薫る 美津 どうなる 参考文献
なお今回の記事を作成するにあたって、下記の文献を参考にしています。これらのうち「明治のナイチンゲール 大関和物語」はNHKの朝ドラ「風、薫る」の原案となっている本です。
