風、薫る 信右衛門のモデル 大関弾右衛門増虎の死
大関弾右衛門増虎は1876(明治9)年に病死
朝ドラ「風、薫る」の一ノ瀬信右衛門のモデルとなった大関弾右衛門増虎は、大関和(「風、薫る」の一ノ瀬りんのモデル)さんと渡辺福之進豊綱(奥田亀吉のモデル)との縁談をまとめたのち、1876(明治9)年5月7日に病死。享年50。
「風、薫る」の原案である「明治のナイチンゲール 大関和物語」によると、大関弾右衛門増虎の死因は流行り病であり、その最期はあっけないものだったと説明されています。
明治九(一八七六)年、弾右衛門は一八歳になった和の縁談をまとめると間もなく五〇歳で流行り病に倒れた。このとき哲がなけなしの金をはたいて連れてきたのは、近所で評判の拝み屋であった。拝み屋の指示どおり疫病退散の札を貼り、まじないを唱えたが、弾右衛門は呆気なく逝ってしまった。和が命のはかなさを知った最初である。
なお、この記事を書くにあたって参考としたもう1冊の文献である「大風のように生きて: 日本最初の看護婦大関和物語」でも、1876(明治9)年に大関弾右衛門増虎が娘の縁談をまとめたのちに亡くなったことが記述されています。
ただその死因は「病気」と記述されているだけで、何の病気であるかについては説明されていません。
だが、しばらくして弾右衛門は病気になり、黒羽に戻って静養するうち、一八七六(明治九)年五月七日、不帰の客となった。まだ、五〇歳だった。妻哲と、八千代、和、復彦、釛(こく)、衛(まもる)の五人の子どもたちが残された。(中略)(『下野勤皇列伝』・前篇)
大関弾右衛門の死で離婚ができなくなった大関和
18才で父を亡くすことになった大関和さんは悲しかったに違いなかったでしょう。ただ後に残された大関和さんにとって、それ以上に困ったことが起こります。それは夫・渡辺福之進豊綱と、ますます離婚しにくくなったことでした。
もともと大関和さんは、22才も年上だった渡辺福之進豊綱との結婚には乗り気ではなかったようです。「大風のように生きて: 日本最初の看護婦大関和物語」にはこのような記述があります。
和は結婚を拒んだ。しかし、病身の父親弾右衛門の立場を考えれば、それも難しいことだった。だが、どう考えてみても嫌なことに違いない。思いあまった末、和は坊主頭にしてしまった。尼の姿である。坊主頭のまま、馬を疾走させた。しかし、親子ほども年が違う渡辺福之進は、そんなことで動じるはずもなかった。
大関弾右衛門増虎が死去したことの影響
離婚できないと夫に見透かされていた大関和
もともと結婚に乗り気でなかった大関和さんの不安は、1877(明治10)年に長男・大関六郎さんを出産したのちに的中。夫にはなんと5人の妾とその間にできた5人の子供がいることが判明したのです。
大関和さんは夫に妾たちと別れるように迫りますが、渡辺福之進豊綱は拒否。ならば自分が離婚すると応酬しますが、「離婚ができるものならやってみろ」と逆に丸め込まれてしまいます。
「考えてもみよ。お前の父上の弾右衛門殿は、知ってのとおり失脚してしまわれたのだ。わが渡辺家は先の戦争には手柄を立てさえしている。お前の家の名誉を回復するうえからいえば、これほど周囲を説得できることに役立つ仕儀もないであろうが」
大関和と渡辺福之進豊綱が結婚した本当の理由とは
実は大関和さんと渡辺福之進豊綱との結婚には、明治時代初期ならではの複雑な事情が含まれていました。
引用した福之進のセリフにある「弾右衛門が失脚した」というのは、大関弾右衛門増虎が戊辰戦争時(1868年1月~1869年5月)に黒羽藩の国家老として佐幕の立場を取っていたことを意味します。
そして「渡辺家は先の戦争には手柄を立て」たと言っているのは、渡辺福之進豊綱は戊辰戦争の1つである会津戦争(1868年5月~6月)において、黒羽藩から小隊を率いて小隊長として新政府軍に味方し、会津藩を攻撃したことを指しています。
その結果、明治維新後の黒羽藩の藩内において、大関家は「賊軍」、渡辺家は「維新の功労者」というイメージがついてしまったのです。
こうした時代背景があり、大関弾右衛門増虎がまとめた大関和さんと渡辺福之進豊綱の縁談には、「大関家の名誉回復」という意味が込められていました。
そのため大関和さんは、いやいやながらも親子ほども年の離れた渡辺福之進豊綱との結婚に応じたのです。
大関弾右衛門増虎の死後も大関和さんの不幸な結婚が続いた
ただ黒羽における大関家と渡辺家との力関係にもとづく結婚だったからこそ、離婚をするときには大関和さんの一存でできるものではありませんでした
もし父が存命であれば、大関和さんが夫に5人もの妾がいることを知った時点で、大関弾右衛門増虎と離婚の相談ができたでしょう。しかしすでに父はこの世の人ではなかったため、相談することすらできません。
結局、大関和さんは夫の不貞に屈する形で不幸な結婚を続け、1880(明治13)年には長女・大関心さんを出産することになりました。
風、薫る 信右衛門 死因 関連記事と参考文献
風、薫る 信右衛門 死因 関連記事
朝ドラ「風、薫る」の一ノ瀬信右衛門(北村一輝)のモデルとなった大関弾右衛門増虎とは、1876(明治9)年に亡くなったのちも、その死にまつわる興味深いエピソードを残しています。
また大関弾右衛門増虎の死因や最期の様子については下記の記事でも言及しています。合わせて参考にしてください。
風、薫る 信右衛門 死因 参考文献
なお今回の記事を作成するにあたって、下記の文献を参考にしています。これらのうち「明治のナイチンゲール 大関和物語」はNHKの朝ドラ「風、薫る」の原案となっている本です。
