風、薫る 吉江善作のモデル 植村正久
風、薫るの吉江善作とは
NHKの2026年前期朝ドラ「風、薫る」で原田泰造さんが演じる吉江善作(よしえぜんさく)とは、孤児の主人公・大家直美(上坂樹里)を引き取って育てた人物です。
吉江善作は明治・大正時代の日本でキリスト教の宣教・伝道につとめた植村正久(1858~1925年)がモデルになっていると考えられます。
風、薫る 吉江善作の役柄
NHKは原田泰造さんが演じる吉江善作の役柄についてこのように設定しています。
キリスト教の牧師で4年前に直美を引き取って以来、直美をそっと見守ってきた。自立したい直美の意思を尊重して別々に暮らしているが、常に直美のことは気にかけている。
風、薫る 吉江善作 役 原田泰造さん プロフィール
1970年生まれ、東京都出身。
NHKでは『胡桃の部屋』『コントレール~罪と恋~』『どこにもない国』『そろばん侍 風の市兵衛』、連続テレビ小説『ごちそうさん』、大河ドラマ『篤姫』『龍馬伝』などに出演。
植村正久とはどんな人物だったのか
植村正久とは
植村正久は1858(安政5)年に幕臣の家に誕生するも、明治維新によって家禄をすべて消失。転居先の横浜で1873(明治7)年に宣教師・バラより受洗を受けクリスチャンに。
伝道者としての植村正久は1887(明治20)年に一番町教会(現在の日本基督教団富士見町教会)を設立。その後は市ヶ谷教会・青山教会・千駄ヶ谷教会・大森教会・白金教会・洗足教会の設立にも関わります。
また教師としての植村正久は、1904(明治37)年に東京神学社(現在の東京神学大学の前身の1つとなる学校)を設立。1925(大正14)年に亡くなる日までその校長及び教授として神学生の訓練に任に当たったことでも知られています。
植村正久の出自と家族
植村正久の植村家は、上総国山武郡(現在の千葉県山武市などを含む千葉県東部地域)において1,500石の知行を有していた徳川将軍家で旗本をしていた家柄です。
植村正久は父・植村禱十郎、母・てい(貞)の間の長男として誕生。幼名は道太郎といい、2人の弟たち(儀三郎と甲子次郎)がいました。
和歌山県田辺出身の山内季野と結婚したのちには、長女・澄江、次女・薫子、三女・環、四女・恵子の4人の子供たちをもうけています。
植村正久 年表
明治・大正時代の日本にあって、その一生をキリスト教の伝道と教師養成に捧げた植村正久の人生を年表にすると以下の通りとなります。
| 西暦(和暦) | 年齢 | できごと |
|---|---|---|
| 1858(安政5)年 | 0才 | 徳川家の旗本・植村禱十郎とてい(貞)の長男として上総国山辺郡武謝田村で誕生(もしくは江戸芝露月町)。幼名は道太郎 |
| 1868(明治元)年 | 10才 | 明治維新により徳川幕府が崩壊。山辺郡蓮沼村で帰農を試みるも定着できず一家で横浜に移住 |
| 1872(明治5)年 | 14才 | 宣教師・バラ(Ballagh, J.H.)の私塾に入門 |
| 1873(明治6)年 | 15才 | 5月4日バラから受洗を受ける。ブラウン塾に入門 |
| 1877(明治10)年 | 19才 | 横浜から東京に移住し東京一致神学校に入学。東京下谷区練塀町の自宅で講義所を解説 |
| 1878(明治11)年 | 20才 | 日本基督教一致教会から准允(補教師になること)を受ける |
| 1880(明治13)年 | 22才 | 下谷の自宅にて牧師就任式が行われる |
| 1882(明治15)年 | 24才 | 和歌山県田辺出身の山内季野と結婚。このころ大関和さんと出会う |
| 1883(明治16)年 | 25才 | 下谷一致教会の牧師を辞任。長女・澄江が誕生 |
| 1886(明治19)年 | 28才 | 大関和さんに桜井女学校(現在の女子学院)内に付属する看護婦養成所(桜井看護学校)に入学することを勧める。次女・薫子が誕生 |
| 1887(明治20)年 | 29才 | 一番町教会(現在の富士見町教会)を設立。3月に大関和さんを受洗に導く |
| 1890(明治23)年 | 32才 | 「福音週報(のちの福音新報)」を発刊。三女・環が誕生 |
| 1890(明治27)年 | 36才 | 四女・恵子が誕生 |
| 1901(明治34)年 | 43才 | 本郷教会の牧師・海老名弾正とキリスト論をめぐって論争 |
| 1904(明治37)年 | 46才 | 東京神学社(現在の東京神学大学の前身の1つ)を設立 |
| 1923(大正12)年 | 65才 | 関東大震災の発生により東京神学社・富士見町教会が焼失 |
| 1925(大正14)年 | 67才 | 1月8日に心臓発作のため死去 |
明治時代初期に植村正久がクリスチャンとなった理由
明治時代初期における日本人のキリスト教に対する考え方
1873(明治7)年に宣教師・バラより受洗を受けたのちの植村正久は、キリスト教の伝道とその教師たちを養成することに一生を捧げた人物であると言って差し支えないでしょう。
そもそも植村正久は、なぜ明治時代初期の日本にあってクリスチャンとなることを志したのでしょうか?
植村がクリスチャンになった当時、キリスト教を禁教としていた徳川幕府の時代がようやく終わったばかりの時代でした。
1873年(明治6年)2月24日、明治政府は徳川幕府がこれまで掲げていた「キリシタン禁制の高札」を撤廃。キリスト教の布教や信仰の自由を認めることになります。
しかし体制側から260年近くの長きに渡って「禁教」と教え込まれてきた歴史を持つキリスト教は、明治初期のほとんどの日本人にとって「異教」あるいは「邪教」にしか見えなかったようです。
当時の一般的な日本人のキリスト教に対する考え方が、朝ドラ「風、薫る」の原案となった「明治のナイチンゲール 大関和物語」に登場する鈴木雅(「風、薫る」の大家直美のモデル)のセリフによって語られています。
「好みの男性?そうですね。信仰の話ができることが最低条件でしょうか」
和が馬鹿正直に答えると、雅がため息まじりに「信仰の話は桜井女学校関係者でとどめておいた方がいいです。ほとんどの日本人にとってキリスト教はいまだに異教、いえ邪教なのですよ。そんなに信仰の話がしたければ、植村牧師のところへお行きなさい」と言う。
この鈴木雅の発言は1888(明治21)年から1889(明治22)年ごろのこととして設定されています。
植村正久がバラから受洗を受けた年は、鈴木雅の発言より15年以上前です。明治時代初期の日本において、キリスト教が世間から受けた風当たりはさらに強かったと容易に想像できるでしょう。
「徳川の武士」だったからこそクリスチャンとなった植村正久
しかも植村正久の出自は、キリスト教を禁教としてきた徳川幕府の体制を守る将軍家旗本の家柄です。
受洗したときの年齢が柔軟な思考を持つことができる15才だったとはいえ、植村正久は旧時代においてはガチガチの「体制派」の1人でした。
そんな植村正久はなぜ若き日にキリスト教の伝道を志すようになったのでしょうか?
逆説的に聞こえるかもしれませんが、植村正久は、徳川幕府の体制下において高い身分の武士であったからこそ、クリスチャンとなったと考えることができます。「植村正久: 生涯と思想」によると、こう書かれています。
初期の信徒、とりわけ武士の子弟の青年たちは、キリスト教の教理そのものに心服して入信したというよりも、むしろ武士としての自尊がキリスト教を選ばせた、ということがしばしば指摘される。このことに関しては植村も例外ではなかった。
キリスト教は武士の倫理観や道徳観を甦らせる教えだった
「士農工商」という4つの身分に分けられていた徳川時代において、かつて植村正久が属していた「士」は他の三民(「農」・「工」・「商」)の上に立って倫理や道徳を指導する立場にありました。
しかし明治維新により徳川幕府は崩壊。それとともに武士たちの指導者意識を支える地盤も崩壊し、彼らの矜持を支えるものは何も無くなってしまったのです。
そんなときに明治政府によって「キリシタン禁制の高札」が撤廃され、キリスト教と出会うことになるのです。
この視点からみるとキリスト教は彼らの目に、家名の挽回、政治的野心、立身出世などといった世俗的「利」を拒否し、神の「義」を「天の宝」として積む教えとして映ったであろう。ここに、ひとたび挫折した武士の指導者意識が再び蘇り、新たな活力となって彼らを振るい立たせたである。
「植村正久: 生涯と思想」では植村正久が受洗した理由の1つとして、若者にありがちな一時的な気分の高揚などではなく、武士としての倫理観や道徳観が働いていた可能性を指摘しています。
植村正久と大関和の関係
植村正久と大関和の出会い
朝ドラ「風、薫る」の主人公の1人である、一ノ瀬りん(見上愛)のモデルとなった、大関和(1858~1932年)さんと植村正久が出会ったのは、大関和さんが渡辺福之進豊綱と離婚したのち、東京で英語塾に通っていたことがきっかけです。
1881(明治14)年ごろ、大関和さんは植村正久牧師の弟・植村正度(うえむらまさのり)が経営する英語塾に通い始めます。この英語塾に通ううちに大関和さんは、1882(明治15)年ごろには植村正久牧師が牧する下谷一致教会にも出入りするようになっていました。
渡辺福之進豊綱との結婚生活の中で夫の不貞に寛容な社会に理不尽を覚え、キリスト教が説く「一夫一婦制」の教えを聞き感動を受けたからです。
植村正久が大関和にトレインドナースとなることを勧める
1886(明治19)年のある日、植村正久は、大関和さんに桜井女学校(現在の女子学院)内に設立される看護婦養成所に入学して、「トレインドナース」になることを勧めます。
しかし明治時代初期から中期ごろの看護婦は、「看病婦」と呼ばれ、現代と違って専門教育を受けていなかっただけでなく、「命を売って金儲けをする卑しい人間」として世間から蔑まれる存在でした。
当時の大関和さんも看護婦に対して世間一般と変わらない認識の持ち主で、元・家老の娘がすることではないと、一度は植村正久の申し出を断ります。しかし植村は大関和さんを一喝。このように説得します。
「君はキリスト教信者になりたいと言いながら、まだ名誉にこどわるのか。名誉を望むのも罪の1つである。われわれ信者がまずしなければならないことは、神の御前に善きことをなすこと、これが第一なのだ。他人が賤しんだり誹ったりしようとも、神の前で正しいことならば、まずそれをやり遂げるべきではないのか。
(中略)
この世で病いに苦しんでいる人ほど不幸な人はいない。その病人を真心をもって看護することで天なる父の慈愛を示すのは、これ以上の伝道はないと思う。神の恩を口で説いて感動を与えるより、それを言動に現して悟らせるべきなのではないだろうか」亀山美知子「大風のように生きて: 日本最初の看護婦大関和物語」ドメス出版 35ページから36ページ
同じエピソードは「明治のナイチンゲール 大関和物語」でも語られており、植村正久のこの言葉がきっかけで大関和さんはトレインドナースになることを決意します。
植村正久が大関和に受洗に導く
1887(明治19)年3月、植村正久は牧師として看護婦養成所に在学中であった大関和さんを受洗に導きます。
植村正久の手によってクリスチャンとなった大関和さんは植村正久を「師」と仰ぎ、植村正久が1925(大正14)年に亡くなるまで子弟関係が続くことになります。
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朝ドラ「風、薫る」で原田泰造さんが演じる吉江善作のモデルとなった、植村正久については下記の記事でも言及しています。合わせて参考にしてください。
風、薫る 善作 モデル 参考文献
今回の記事は下記の書籍を参考文献としています。これらのうち「明治のナイチンゲール 大関和物語」は朝ドラ「風、薫る」の原案にもなっています。
