小泉八雲と小泉セツの関係について
小泉セツは小泉八雲の「リテラシーアシスタント」だった
2025年9月29日月曜日から始まるNHKの朝ドラ「ばけばけ」は小泉八雲の妻・小泉セツをモデルとした、松野トキ(髙石あかり)を主人公とするお話です。
小泉セツは、「小泉セツ 何をした人 どんな人 小泉八雲 再話文学の語り手」という記事でも述べたように、小泉八雲にとってのリテラシー・アシスタントでした。
再話文学の語り手
つまり日本語の能力が必ずしも十分でなかった八雲が日本に関する小説を書くために、日本の神話や伝承・昔話などを語って聞かせていたのです。そのため小泉セツは「再話文学の語り手」と呼ばれることもあります。
そんな小泉セツはどんな性格の持ち主だったのでしょうか?今回の記事では小泉セツの性格にまつわるエピソードを4つご紹介します。
小泉セツ 性格を表す4つのエピソード・逸話
1. 大人になってもお話好きだった小泉セツ
小泉セツの幼少期がそうであったように、大人に成長してもお話好きは変わりませんでした。
小泉セツの養母・稲垣トミ(朝ドラ「ばけばけ」の松野フミのモデル)が出雲大社で神官を務める家の出身であったため、子供の頃、セツは出雲の神々にまつわる話を聞いていました。
前田為二(朝ドラ「ばけばけ」の山根銀二郎のモデル)と最初の結婚をしたのちは為二から「鳥取の布団」の話を聞き、さらに実母の小泉チエ(朝ドラ「ばけばけ」の雨清水タエのモデル)からは「月照寺のテイ坊」の話を聞くこともあったようです。
2. 親孝行だった小泉セツ
小泉セツの養父・稲垣金十郎(朝ドラ「ばけばけ」の松野司之介のモデル)は事業に失敗して多額の借金を背負ってしまいます。稲垣家はセツを学校に行かせる余裕がなくなったため、セツはわずか小学校4年生で学歴を終えなければなりませんでした。
そこから常に家計は火の車で、機織りや洋裁などの賃仕事で養家の稲垣家を支えることになりますが、そのうち実家の小泉家でも没落が始まります。
実父の小泉湊(朝ドラ「ばけばけ」の雨清水傳のモデル)が経営する機織会社は倒産したにも関わらず、上級武士の家系であった小泉家には家計を支える人は誰一人としていません。
仕方なく小泉セツは当時、島根県尋常中学校(現在の島根県立松江北高等学校)の英語教師として赴任してきたラフカディオ・ハーン(のちの小泉八雲)の住み込み女中を引き受けます。しかし当時の日本では、西洋人の住み込み女中のことを「洋妾(ラシャメン)」と呼び蔑んでいました。
このとき小泉セツには、たとえ世間から嘲笑を受けても給金の高い住み込み女中の仕事を引き受け、稲垣家や小泉家に親孝行を尽くさなければならないという気持ちがあったと考えられます。
3. 夫に対して献身的だった小泉セツ
小泉八雲と小泉セツの松江での出会いと結婚をして熊本に転居するまでの話を描いた「へルンとセツ」という小説では、小泉セツは住み込み女中の仕事の合間に、ラフカディオ・ハーンのために為二から教えてもらった「鳥取の布団」の話を聞かせます。
これ以降、小泉八雲が小説を書くために再話文学の語り手となるのはセツの仕事になりますが、そのうち聞かせる話もなくなってきます。
そこでセツは自ら古本屋などを回って日本の神話や伝承に関する話が載っている本を購入し、「話のネタ」とします。さらに八雲が「知られぬ日本の面影」を書くにあたって取材旅行などをするときには、同行して怪談話などを地元の人たちから収集していました。
結婚後の小泉セツには「小泉八雲の作品づくりのために自分は何ができるだろうか」という視点が常にあったと考えられます。もちろんこうした小泉セツの献身的な態度が、小泉八雲の執筆活動に多大な貢献をしたことは言うまでもありません。
4. 「良きおばあちゃん」だった小泉セツ
1925(大正14)年には、小泉セツの長男である小泉一雄・喜久恵夫妻の間に小泉時(こいずみとき)さんが誕生。小泉時さんはセツにとっての初孫でした。
この頃の小泉セツは小泉八雲が亡くなったのち20年以上が経過し、八雲が遺した新宿・西大久保の住宅に住み、能、謡(うたい)、鼓(つづみ)の稽古に熱心でした。
そんな稽古の合間に、離れに住んでいる孫の時がやってきては、セツは三越で購入したおもちゃを手渡したり、紅茶やお菓子をご馳走するなど、孫をよく可愛がる「良きおばあちゃん」でもあったようです。
