風、薫るの時代: 明治時代半ばから大正時代にかけて
朝ドラ 風、薫るは明治時代半ばがメインのお話
NHKの2026年前期朝ドラ「風、薫る」は、主に明治時代のお話となるでしょう。NHKが朝ドラ「風、薫る」の制作を発表したときの記事にはこのような記述があります。
主人公はそれぞれに生きづらさを抱えた二人の女性。当時まだ知られていなかった看護の世界に飛び込み、
傷ついた人々を守るために奔走し、時に強き者と戦う――明治という激動の社会を舞台に、幸せを求め生きるちょっと型破りな二人のナースの冒険物語です。
「風、薫る」の主人公である一ノ瀬りん(見上愛)のモデルは大関和(1858~1932年)さん、大家直美(上坂樹里)のモデルは鈴木雅(1857~1940年)。
2人が生きた時代は幕末期から昭和初期にかけての時代であり、特に活躍が目立つのは明治時代半ばから大正時代にかけてのことです。
大関和と鈴木雅さんの年表
大関和さんと鈴木雅さんはまさに同年代の人同士です。生まれた年は、大関和さんよりも鈴木雅さんの方が1年早く、1才年上です。
大関和の年表
西暦(和暦) | 年齢 | できごと |
---|---|---|
1858(安政5) 年 | 0才 | 4月11日に下野国黒羽藩の家老・大関弾右衛門と哲の間に二男三女の次女として誕生 |
1868(明治元)年 | 10才 | 明治維新に伴い父・弾右衛門が黒羽藩の家老を辞職 |
1876(明治9)年 | 18才 | 黒羽で渡辺(柴田)福之進豊綱と結婚。父・弾右衛門が死去 |
1877(明治10)年 | 19才 | 長男・六郎を出産 |
1880(明治13)年 | 22才 | 長女・心(しん)を出産し、夫と離婚 |
1881(明治14)年 | 23才 | 実家の家族と上京。英語塾に通い始める |
1882(明治15)年 | 24才 | 下谷一致教会の 牧師・植村正久と出会う |
1886(明治19)年 | 28才 | 植村正久牧師から看護婦(トレインド・ナース)になるよう説得を受ける |
1887(明治20)年 | 29才 | 1月に桜井女学校(現・女子学院)内の桜井看護学校に入学し鈴木雅と出会う。3月にキリスト教の洗礼を受ける |
1888(明治21)年 | 30才 | 10月に桜井看護学校を卒業。トレインドナースとして帝国大学医科大学第一医院外科看病婦取締となる |
1889(明治22)年 | 31才 | 帝大の寄宿舎が火災に遭い負傷者の篤志看護を申し出る。このころ相馬愛蔵と知り合う |
1890(明治23)年 | 32才 | 第一医院外科医局長・佐藤三吉に看病婦の待遇改善に関する建議書を提出。11月に第一医院を退職し、高田女学校の舎監に転ずる |
1891(明治24)年 | 33才 | 2月に高田の廃娼活動に参加し、5月に木下尚江と知り合う。11月に知命堂病院の看護婦長に就任 |
1894(明治27)年 | 36才 | 知命堂病院産婆看護婦養成所の兼任講師となる |
1896(明治29)年 | 38才 | 高田を去り、上京。鈴木雅が経営する派出看護婦会である「東京看護婦会」付属の東京看護婦講習所に講師として参画 |
1898(明治31)年 | 40才 | 木下尚江に求婚されるも相馬愛蔵の反対などもあり破談 |
1899(明治32)年 | 41才 | 7月に「派出看護婦心得」を出版。11月に「大日本看護婦人矯風会」を設立 |
1900(明治33)年 | 42才 | 6月に長女の心が20才で結核のため死去 |
1901(明治34)年 | 43才 | 「東京看護婦会」を辞職。箱根湯本に引きこもるも、鈴木雅から「東京看護婦会」の経営を引き継ぐ |
1904(明治37)年 | 46才 | 長男・六郎が結婚。日露戦争に出征した兵士へ送る慰問袋作りに奔走 |
1907(明治40)年 | 49才 | 7月に弟・復彦を亡くし、遺児の増博を妹・釛に預ける。 |
1908(明治41)年 | 50才 | 「実地看護法」を出版 |
1909(明治42)年 | 51才 | 11月にキリスト教主義の「大関看護婦会」を設立。孫の一郎が誕生 |
1910(明治43)年 | 52才 | 長男・六郎がジャワでマラリアに感染して33才で病死 |
1912(大正元)年 | 54才 | 母・哲が亡くなる |
1923(大正12)年 | 65才 | 関東大震災のため大関看護婦会が焼失 |
1926(大正15)年 | 68才 | NHKの「家庭講座」にラジオ出演 |
1929(昭和4)年 | 71才 | 脳溢血を患い半身不随となる。川原貞を後継者に指名 |
1932(昭和7)年 | 74才 | 5月22日に死去 |
鈴木雅の年表
西暦(和暦) | 年齢 | できごと |
---|---|---|
1857(安政4) 年 | 0才 | 加藤信盛・トヨ夫妻の長女として静岡で誕生 |
1877(明治10)年 | 20才 | 日本婦女英学校(現在の横浜共立学園)に入学 |
1880(明治13)年 | 23才 | 鈴木良文陸軍少佐と結婚 |
1883(明治16)年 | 26才 | 夫・鈴木良文が西南戦争で受けた銃創のために亡くなる |
1887(明治20)年 | 30才 | 1月に桜井女学校(現・女子学院)内の桜井看護学校に入学し大関和と出会う。 |
1888(明治21)年 | 31才 | 10月に桜井看護学校を卒業。トレインドナースとして帝国大学医科大学第一医院内科看病婦取締となる |
1891(明治24)年 | 34才 | 第一医院を退職。アメリカで看護学を学ぶために留学を決意するも中止。派出看護婦会の「慈善看護婦会」を設立 |
1893(明治26)年 | 36才 | 「慈善看護婦会」の名称を「東京看護婦会」に改める |
1896(明治29)年 | 39才 | 大関和を「東京看護婦会」付属の東京看護婦講習所に招聘 |
1901(明治34)年 | 44才 | 「東京看護婦会」の経営を大関和に引き継ぎ、息子・良一とともに隠居暮らしを始める |
1922(大正11)年 | 65才 | 東京・小石川から京都・稲荷山に転居。大関和と今生の別れ |
1926(大正15/昭和元)年 | 66才 | 沼津に転居 |
1938(昭和13)年 | 81才 | 長男・良一が死去 |
1940(昭和15)年 | 82才 | 死去 |
風、薫るの時代背景: コレラや赤痢などの感染症が猛威を振るっていた
トレインドナースの誕生と派出看護婦会の誕生(1887年~1891年ごろ)
大関和さんと鈴木雅さんが桜井女学校(現在の女子学院)内の看護婦養成所で看護学生をしていた1886(明治20)年ごろ、看護婦(現在の看護師)の社会的認知はほとんどなく、むしろ「看病婦」と言われて世間から蔑まれる存在でした。
しかし、1887(明治21)年に大関和さんと鈴木雅さんが看護婦養成所を卒業したころから、西洋式の看護学を身につけた「トレインドナース」たちが世の中に登場し始めます。看護婦のイメージが変わり始めたのは、この頃からのことです。
鈴木雅さんは個人の患者宅でトレインドナースが必要とされることを感じ、日本で最初の個人経営の派出看護婦会である「慈善看護婦会(のちに東京看護婦会に改称)」を1891(明治24)年に設立しました。
日清戦争と感染症の大流行(1894~1895年ごろ)
そして「トレインドナース」たる看護婦が世間から圧倒的に必要とされ世の中で認知され始めたきっかけは、感染症の流行でした。
1895(明治28)年、日本は清国との戦争である日清戦争に勝利しますが、大陸に出征していた兵士たちが帰国するとコレラや赤痢といった伝染病(感染症のこと)が国内で蔓延し始めます。
一方で派出看護の大きな需要を見越して、素人同然の派出看護婦を患者宅に送り込む悪質な派出看護婦会も現れ始め、「看病婦」と呼ばれた看護婦のイメージが改められるにはほど遠い状況でした。
大日本看護婦人矯風会の設立と「派出看護心得」の出版
クリスチャンとして信仰心が厚く、看護婦を天職であると信じる大関和さんは、「看病婦」として蔑まれることは耐え難く、1899(明治32)年に当時、医療行政を管轄していた内務省衛生局に悪質な派出看護婦会に対する取締や看護婦規則の強化を陳情。
さらに派出看護婦会業界の自浄作用を促すべく、業界団体の「大日本看護婦人矯風会」を設立します。
さらには自らが所属していた東京看護婦会附属の看護学校である「東京看護婦会講習所」では、自らの経験や知識をもとにして記した「派出看護心得」という本を使って、看護婦の育成にも当たることに。
こうした看護婦への偏見がなくなるのは、大関和さんと鈴木雅さんが「トレインドナース」の一線から退いた大正時代末のことでした。
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大関和・鈴木雅の業績
朝ドラ「風、薫る」の時代や時代背景をよく知るためには、主人公・一ノ瀬りんと大家直美のモデルとなった大関慶さんと鈴木雅さんがそれぞれ何をした人であるのかを知ると理解が進むでしょう。それぞれ以下の記事を参考にしてください。