33才の若さで亡くなった大関六郎
大関和の息子・大関六郎とは
NHKの2026年前期朝ドラ「風、薫る」で主人公・一ノ瀬りん(見上愛)のモデルは、大関和(おおぜきちか)(1858~1932年)さんです。
大関和さんは明治時代に「トレインドナース」となり、明治・大正期を通じて偏見の多かった看護婦という職業の確立に多大な貢献をされました。その活躍から「明治のナイチンゲール」とも呼ばれています。
その大関和さんには2人の子供たちがいました。息子の大関六郎(おおぜきろくろう)さんと娘の大関心(おおぜきしん)さんです。今回はそのうち、六郎さんにスポットを当てた記事となります。
大関和 息子 大関六郎 参考文献
大関和さんの息子・大関六郎さんに関する内容について参考とした文献は以下の2冊です。
これらのうち「明治のナイチンゲール 大関和物語」は朝ドラ「風、薫る」の原案となっています。
大関六郎とはどんな人物だったのか
「六郎」の名付けの理由
1877(明治10)年、大関六郎さんは渡辺福之進豊綱(わたなべふくのしんとよつな)と大関和さんとの間の男子として誕生します。
大関六郎さんは大関和さんにとって初めての子供だったにも関わらず、「六郎」と名付けられた理由は、渡辺福之進豊綱が妾たちとの間にすでに5人の子供をなしていたからです。
渡辺福之進豊綱にとって6番目の子供であったため、「六郎」と名付けられることになりました。
祖母の大関哲さんによって養育された大関六郎
夫に妾が複数存在していることに耐えられなかった大関和さんは、1880(明治13)年に渡辺福之進豊綱と離婚。このとき大関和さんは、六郎さんと娘である心(しん)さん、妹・釛さん、母・哲さんともに上京します。
上京した大関和さんは、1887(明治20)年に桜井女学校(現在の女子学院)内にある看護婦養成所(桜井看護学校)に入学し、帝国大学医科大学附属第一医院(現在の東京大学医学部附属病院)で外科看病婦取締(今でいう看護師長)として勤務することになります。
さらには1890(明治23)年には、高田女学校の舎監の職を経て、知命堂病院に看護師長兼講師として1896(明治29)年まで高田の地に留まります。
大関和さんは現代で言うところの「シングルマザー」であり、大関家の家計を一手に支えていました。そのため六郎さんと心さんの子育ては、大関和さんの母である哲さんが担当。六郎さんの「育ての親」は祖母だったのです。
医学校を卒業するも医術開業試験に落ち続ける
大関六郎さんは学校の成績が大変良く、旧制の第一高等学校(現在の東京大学教養学部)を経て、東京慈恵医院医学校(現在の東京慈恵会医科大学)に入学します。
「大風のように生きて: 日本最初の看護婦大関和物語」によると大関和さんは大関六郎さんを歯科医にさせたかったようですが、肝心の医術開業試験に合格することができません。
東京看護婦会の沢本操と結婚
医術開業試験になかなか合格できない息子を見て大関和さんが焦っていたところ、1904(明治37)年、大関六郎さんは結婚します。
結婚相手は沢本操(さわもとみさお)さんと言う女性で、大関和さんが経営をしていた「東京看護婦会」でも特に有能な看護婦でした。
「明治のナイチンゲール 大関和物語」によると、2人の結婚について、大関和さんは有能な弟子に不出来な息子を押し付けるよう形になって心苦しいと記述されています。
ジャワ島で病死 33才の若さで亡くなる
医術開業試験に落ち続けてブラブラと無為に過ごしていた期間が長かった大関六郎さんの結婚は、大関和さんの目から見て頼りなかったものの、息子の一郎さん(大関和さんにとっては孫にあたる)が誕生してからは、自分が一家の大黒柱であることに目覚め始めたといいます。
しかし東南アジアで聖書を販売する仕事があると言うことで、大関六郎さんはいきなり海外へ。このとき大関和さんは何か大きな不安を感じたそうですが、その不安は不幸な形で的中。
大関六郎さんはジャワ島でマラリアに感染し、1910(明治43)年に33才の若さで亡くなります。六郎の亡き後には妻の操さんと息子の一郎さんが残されるという事態になりました。