大山捨松の死去と葬儀の様子
スペイン風邪(インフルエンザ)に罹患していた大山捨松
NHKの2026年前期朝ドラ「風、薫る」に登場する大山捨松(多部未華子)は、1919(大正8)年2月18日の午後4時20分に死去します。享年59。
大山捨松の死因は、当時流行っていたスペイン風邪(インフルエンザ)であったと考えられます。亡くなる前には40度近い高熱が出て、肺炎を併発し呼吸困難を伴っていたと言います。
大山捨松のひ孫にあたる久野明子さんは、その著書である「鹿鳴館の貴婦人大山捨松: 日本初の女子留学生 (中公文庫 く 12-1)」の中で、インフルエンザのワクチン注射も良くなかったのかもしれないと指摘しています。
嫁の武子の話によると、捨松は医者がワクチン注射を打った直後に、急に体が震えだし、顔色が変わって呼吸が止まってしまったという。捨松は極度のアレルギー体質だったので、このワクチン注射のショックで死期を早めてしまったのかもしれない。
50年近くの「盟友」・津田梅子が参列した大山捨松の葬儀
大山捨松は生前、設立や運営に尽力した女子英学塾(のちの津田塾大学)で、病身の津田梅子に代わる塾長代理として、卒業生の辻マツという女性に塾長代理を引き受けてもらいます。
辻マツの塾長代理就任式は1919(大正8)年2月5日に行われ、亡くなる12日前の出来事で式への出席は捨松の「最後の仕事」ということになりました。
そのため同年2月22日に行われた大山邸での告別式において、参列者の涙を誘ったのが病身を押して告別式に参列し、捨松の遺体に花を捧げる津田梅子の姿であったと言われています。
津田梅子にとって大山捨松とは、1871(明治4)年に「日本初の官費女子留学生」として同時にアメリカ留学をして以来、50年近くの「盟友」で、女子英学塾の運営について多大なサポートを得てきた人物です。
捨松を失った梅子の悲しみはいかばかりであったでしょうか。
栃木県・那須に埋葬された大山捨松
2月23日の朝、大山捨松の遺体は上野から汽車に乗せられ西那須野に。すでに1916(大正5)年に亡くなっていた夫・大山巌が眠る栃木県にある那須の大山家墓地に埋葬され、永遠の眠りにつくことになります。
風、薫る 大山捨松 関連記事と参考文献
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また大山捨松自身に関わる話題に関しては下記の記事が参考となるでしょう。
- 大山捨松 家系図 大山捨松の祖父から孫(大山梓・大山桂)まで
- 大山捨松の子供 久子・高・柏・信子・芙蓉子・留子の二男四女
- 大山捨松 子孫 現在 大山梓・大山桂・久野明子さん
- 大山捨松と看護・看護学校・看護婦 鹿鳴館慈善バザーを通じた寄付
風、薫る 大山捨松 参考文献
今回の記事は以下の書籍を参考文献としています。
