大山捨松とその看護活動について
大山捨松とは
NHKの2026年前期朝ドラ「風、薫る」に登場する大山捨松(おおやますてまつ)(多部未華子)とは実在の人物です。
大山捨松は1871(明治4)年、11才のときに日本初の女子留学生として津田梅子・永井繁子らと渡米したことで知られています。
留学中にアメリカのヴァサーカレッジを学士号を取得し卒業。1882(明治15)年に帰国。翌1883(明治16)年に陸軍卿・大山巌(おおやまいわお)と結婚。
「鹿鳴館時代」に社交界の中心として有志共立東京病院(現在の東京慈恵医科大学附属病院)への寄付活動に貢献したほか、「日本赤十字社篤志看護婦人会」などのボランティア活動や女子英学塾(後の津田塾大学)の設立・運営にも尽力しました。
大山捨松と看護・看護学校・看護婦養成について
朝ドラ「風、薫る」は大関和さんと鈴木雅さんをモデルとした一ノ瀬りん(見上愛)と大家直美(上坂樹里)を主人公としたドラマです。
りんと直美は明治時代中期にはまだ珍しかったトレインドナース(正規の訓練を修了した看護婦のこと)となるという設定ですが、大山捨松は同じ時代に看護学校の設立や看護婦の養成に尽力をした人物としても知られています。
大山捨松が明治時代に看護学校の設立や看護婦の養成に貢献した理由は、捨松が「日本初の官費女子留学生」としてアメリカに10年以上留学していたことと深く関わりがあります。
今回の記事ではそんな大山捨松と看護・看護婦・看護学校に関わる話題を紹介します。
アメリカ留学中の大山捨松と看護
11才のときにアメリカへ官費留学
大山捨松は11歳のときに1871(明治4)年10月、北海道開拓使が募集する女子留学生に応募。
同年11月には欧米列強との不平等条約改正を目指す「岩倉使節団」の一行とともにアメリカ・サンフランシスコに渡り、ワシントンに移動。捨松と同じ女子留学生にはのちに女子英学塾(現在の津田塾大学)を開学する津田梅子らもいました。
当初、捨松を含む女子留学生らはワシントンで共同生活を始めますが、日本人同士の生活では英語の学習成果が上がらないことに気がつき、女子留学生らはアメリカ人家庭でそれぞれ別のホームステイをすることに。
1872(明治5)年10月、捨松はニューヨークとボストンの間にあるコネチカット州・ニューヘイブンにあったレオナルド・ベーコン牧師の家庭に預けられることになりました。
大山捨松 看護学校入学前の学歴: ヴァサーカレッジを卒業
大山捨松はベーコン牧師の家庭からニューヘイブンの公立中学校に通い始め、1875(明治8)年9月には男女共学のヒルハウス高校に進学。
1878(明治11)年9月18日にはニューヨーク州の名門女子大学であるヴァサーカレッジに入学が決まり、住まいを大学の寄宿舎に移すことに。大学の専門課程では物理学・動物学・生理学といった自然科学の科目を多く履修。
1882(明治15)年6月14日、ヴァサーカレッジの卒業に際しては「英国の対日外交政策」という自らの卒業論文を卒業生代表してスピーチをすることに。
この時の講演内容は「ニューヨーク・タイムズ」の取材を受けるほどで、同年7月29日付の「東京朝日新聞」でも「我が日本の一大面目といふべし」として賛辞を送る記事として掲載されました。
コネチカット看護婦養成学校で看護婦の免許を取得
1882(明治15)年以前から大山捨松には日本からの帰国命令が出ていました。
しかし帰国は同年の10月末であったため、ヴァサーカレッジを卒業したのちは、ニューヘイブンのベーコン牧師宅に戻り、ニューヘイブン病院付属コネチカット看護婦養成学校に短期入学します。
大山捨松はこの看護学校において衛生学の基本知識や技術訓練を学んだほかに、調理場において医師の処方に基づき、何十人分もの牛肉や鶏肉のスープなどを作ることも。
ほかにも調理で使った大鍋や床を全身の力を使ってごしごし洗うなど何かと体力仕事が多く、捨松にとって看護学校での経験は辛かったようです。
約2ヶ月間、コネチカット看護婦養成学校に在学したのち、大山捨松は「甲種看護婦」の免許を取得することになりました。
日本に帰国した後の大山捨松と看護
「鹿鳴館慈善バザー」と有志共立東京病院への寄付
日本に帰国した後の1883(明治16)年11月、当時の陸軍卿(陸軍大臣)・大山巌と結婚。大山巌との結婚により、上流階級の貴婦人たちとの交わりが多くなります。
そんなある日、大山捨松は有志共立東京病院(現在の東京慈恵医科大学附属病院)を視察し、看護人が男性ばかりであることに疑問を感じます。
二年前、ニューヘイブンの看護婦養成学校で学んだばかりの捨松は、日本の病院や看護婦がどのような状況に置かれているかとても関心があった。病室を訪れると驚いたことに男性が病人の世話をしているではないか。早速、捨松は高木兼寛院長に、「外国では看護人には女性を採用しているを御存じのはずなのに、何故女性をお使いにならないのですか」と質問し、女性のほうが生まれつききめ細かな看護に向いているし、病人にとっても女性のほうが気持が和むものだと説明した。院長は「ごもっともな御説ですが、何分経費が足りず、看護婦養成所を作りたくてもとても手が回りません」と答えている。
久野明子 鹿鳴館の貴婦人大山捨松: 日本初の女子留学生 (中公文庫 く 12-1) 215ページから216ページ
このとき捨松は留学生のときに住んでいたニューヘイブンで開かれていた慈善事業のバザーを思い出します。
19世紀末の日本では「慈善(ボランティア)」や「寄付」といった考えは全くの埒外でしたが、アメリカにおいてはすっかり根付いていました。
さっそく大山捨松は、外国との不平等条約改正を目指して建設された社交場である「鹿鳴館」を使って慈善バザーを企画し、1884(明治17)年6月12日から3日間の間「鹿鳴館慈善バザー」を開催。
鹿鳴館の2階に売場が設けられ、皇族・華族・政府高官たちをはじめとして会期中には約1万2千人が入場。収益も当初目標であった1,000円をはるかに超えた8,000円が集まり、全額が有志共立東京病院に寄付されることになりました。
「日本赤十字社篤志看護婦人会」を通しての看護婦育成に貢献
「鹿鳴館慈善バザー」ののちも大山捨松は、トレインドナースの育成に関心を持ち続け、日本赤十字社にもその育成を働きかけています。
明治二十年の六月に発足された「日本赤十字社篤志看護婦人会」の発起人として有栖川宮妃殿下を初めとして皇族、華族の夫人達の名前が見られるが、当時の貴婦人達が看護活動の何たるかを知るはずはなく、アメリカで看護学を学んだ捨松が実際にはその大きな推進力となったのである。
大山捨松は看護婦として病院などで勤務をしたことはありません。
しかし、捨松は「官費留学生」であり「政府高官の妻」であることを常に自覚し、「自分は日本のために何ができるか」を考え続けた女性です。
結果として看護婦としての実務をするよりは「資金集め」の方が適していると考え、「鹿鳴館慈善バザー」を企画したり、日本で最初のボランティア組織である「日本赤十字社篤志看護婦人会」の発起人となったと考えられます。
もっとも1904(明治37)年に日露戦争が勃発した際には、大山捨松は資金集めをしていただけでなく、率先して日本赤十字社の病院で包帯作りに励んだり、戦死した兵士の家族に対する救護活動にも飛び回っていました。
風、薫る 大山捨松 関連記事と参考文献
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風、薫る 大山捨松 参考文献
今回の記事は以下の書籍を参考文献としています。
