朝ドラ あんぱん 柳井寛のモデル 柳瀬寛はやなせたかしの伯父
朝ドラ「あんぱん」の柳井寛(竹野内豊)のモデルは、実在した漫画家・やなせたかしの伯父・柳瀬寛がモデルであると考えられます。
NHKが2024年8月1日に行った朝ドラ「あんぱん」の出演者発表では、竹野内豊さんが扮する柳井清のキャラクターについてこのように説明しています。
柳井診療所の院長をつとめる町医者。嵩や千尋にとっての育ての父で、どんな時も二人を励まし続け、生きる道しるべを示す。
やなせたかしさんが生前に書いた「アンパンマンの遺書」によると、実在した柳瀬寛も「あんぱん」の役柄通りの人物であったと考えられます。
柳瀬寛 「柳瀬医院」を経営 長岡郡後免町(現在の南国市)にて
柳瀬清は、高知県香美郡香北町で江戸時代から続く名家・柳瀬家の出身で、柳瀬治太郎(やなせたかしの祖父)の長男として生まれます。
柳瀬寛は京都医専(現在の京都府立医科大学)を卒業した後、高知県長岡郡後免町(現在の高知県南国市)で、内科小児科医の「柳瀬医院」を経営していました。
やなせたかしさんの弟・柳瀬千尋の最期を語るノンフィクション小説「慟哭の海峡」では、柳瀬寛個人のことについてこのように紹介しています。
寛は、多趣味な文化人だった。俳句を読み、俳名は「朴城(ほうじょう)」といった。出身地の「朴ノ木」からとった名である。レコードでの音楽鑑賞を好み、自ら琵琶も奏で出るほどの趣味人で、一方、オートバイにサイドカーをつけて、田舎道を疾走する活動的な面も持っていた。
家はサロンのようになり、田舎の文化人たちが集まり、毎夜、宴会が繰り広げられた。それが、柳瀬医院だった。門田隆将 「慟哭の海峡」 角川書店 114ページより
柳瀬寛 柳瀬千尋とやなせたかしを引き取る
柳瀬寛は弟の柳瀬清が亡くなった後、妻の柳瀬キミとともに最初に当時2歳だった柳瀬千尋を養子として引き取ります。その後、やなせたかしさんが小学校2年生の時に、やなせたかしさんの母・登喜子が東京住まいの官僚と再婚することになり、やなせたかしさんも伯父の寛に引き取られます。
やなせたかしさんの弟・柳瀬千尋は柳瀬寛の養子、やなせたかしさんは柳瀬寛の甥という扱いでしたが、柳瀬寛は2人の兄弟について差別して扱うことはなかったようです。
柳瀬清 やなせたかしの父親 朝ドラ あんぱん 柳井清のモデル
柳瀬千尋 戦死 駆逐艦「呉竹」の分隊士として やなせたかしの弟
柳瀬寛 やなせたかしを東京高等工芸学校図案科に進学させる
実際、柳瀬寛は一時期、甥であるやなせたかしさんに家業の「柳瀬医院」を継がせてもいいと考えたほどでした。
崇どうする。医者の学校に行く気はないか。学資は出す。病院もお前にゆずってもいい。
やなせたかし「アンパンマンの遺書」 岩波現代文庫 19ページより
伯父による破格の申し出にもかかわらず、やなせたかしさんは旧制城東中学校(現在の高知県立追手前高校)での数学の成績が悪くて自信がないので「医者にはならない」とあっさり断ってしまいます。
しかし柳瀬寛はやなせたかしに家業を継ぐ気はないと断られたことを気に留めなかったのか、旧制高知高校(現在の高知大学)の受験に失敗したやなせたかしさんに「図案なら飯が食える」と、東京高等工芸学校図案科(現在の千葉大学工学部デザイン科)への受験をそれとなく勧めたようです。
朝ドラ「あんぱん」で柳井寛の役柄は「どんな時も二人を励まし続け、生きる道しるべを示す。」とありますが、実在の柳瀬寛もやなせたかしさんに「生きる道しるべを示し」続けたと考えられます。
やなせたかし 伯父 死因 心臓麻痺 脳溢血 柳瀬寛の最期
なお、やなせたかしさんの伯父・柳瀬寛は50歳という働き盛りの年齢で突然倒れて、帰らぬ人となったと言われています。その柳瀬寛の最期については下記の記事を参考にしてください。