朝ドラ「風、薫る」の黒川勝治は、第7週から帝都医科大学附属病院編に登場している医師です。
一見すると大学病院の医師の一人に見えますが、今後の「風、薫る」では、“新潟編”を支える重要人物になっていく可能性があります。
黒川勝治のモデルとなった瀬尾原始は、帝国大学医科大学附属第一医院で外科助手を務める一方、看護婦養成にも関わっていた人物でした。
さらに後年には、新潟県高田の知命堂病院の初代院長となり、りんのモデル・大関和さんとも再び深く関わっていくことになります。
そのため黒川勝治は、
・大学病院編
・看護実習編
・新潟編
をつなぐ“橋渡し人物”として描かれていく可能性があるでしょう。
→ 帝都医科大学附属病院はどうなる?新潟編との関係を考察
→ 風、薫る りんはなぜ新潟へ行く?大学病院を離れる理由を史実から考察
→ 風、薫る ネタバレ最終回 主要登場人物の結末
結論|黒川勝治は“新潟編の医療世界”を支える人物になる可能性
・黒川勝治は大学病院編から登場している医師
・モデルの瀬尾原始は看護婦の養成にも関わった人物
・新潟編では地方の医療、感染症予防などを支える重要人物になる可能性
→ 風、薫る りんはなぜ新潟へ行く?大学病院を離れる理由を史実から考察
風、薫る 黒川勝治のネタバレと今後の展開
大学病院編から登場している医師
黒川勝治は、第7週から帝都医科大学附属病院編に登場している医師です。
りん・直美らが看護実習を行う大学病院で働いており、近代看護が広がっていく現場を見てきた人物でもあります。
またモデルとなった瀬尾原始も、帝国大学医科大学附属第一医院で看護婦養成に関わっていたことが知られています。
新潟編でも重要人物になる?
今後の「風、薫る」では、“新潟編”が放送されることがNHK公式情報でも予告されています。
そして史実では、瀬尾原始は新潟県高田(現在の新潟県上越市)で知命堂病院の院長となり、大関和さんとも再び関わっていくことになります。
そのため黒川勝治は、新潟編における“医療ドラマの中心人物”になっていく可能性があります。
りんとの関係はどうなる?
りんのモデル・大関和さんは、大学病院を離れた後、新潟県高田で働くことになります。
そこで再び関わることになるのが、瀬尾原始でした。
「風、薫る」でも、黒川勝治は大学病院編で終わる人物ではなく、りんが“病院の外にある看護”へ進む過程を支える存在として描かれる可能性が高いでしょう。
黒川勝治は新潟編で重要人物になる?
知命堂病院とは
知命堂病院は、瀬尾玄弘が1871(明治4)年に新潟県高田の地に知命堂という医院を開業したことに源流を持ちます。
その後、1891(明治24)年に知命堂病院と改名し、初代院長に瀬尾原始が就任。知命堂病院は現在も新潟県上越市を中心として地域医療を支える重要な病院です。
こうした史実から「風、薫る」でも瀬尾原始がモデルと考えられる黒川勝治は、新潟編における医療側の中心人物として描かれる可能性があります。
大関和は看護長として働くことになる
大関和さんは帝国大学医科大学附属第一医院を退職した後、高田女学校の舎監職を経て、1891(明治24)年11月29日から知命堂病院で看護長(現在の看護師長)として働くことになります。
さらに、コレラや赤痢など感染症の流行を防ぐことを目的として、瀬尾原始が設立した速成看護婦養成所の教授も兼任していました。
そのため新潟編では、
・地方医療
・看護教育
・女性看護婦の育成
などが大きなテーマになる可能性を秘めています。
感染症対策と地方医療
大関和さんが知命堂病院で働いていたころの新潟県では、
・コレラ
・赤痢
・腸チフス
など感染症対策が公衆衛生に関する政策の重要な課題となっていました。
知命堂病院では、こうした感染症患者への対応も重要な役割になっていきます。
「風、薫る」でも新潟編では、大学病院とは異なる“地域医療の現場”や”コレラや赤痢などの感染症予防の現場”が描かれていく可能性があります。
看護教育との関わり
瀬尾原始は外科医である一方、看護婦養成にも関わっていました。
そのため「風、薫る」でも黒川勝治は、単なる医師ではなく、“近代看護を理解する医師”として描かれている可能性があります。
帝都病院と知命堂病院の違い
帝都医科大学附属病院が、
・中央
・大学組織
・エリート医療
を象徴する存在だとすれば、
知命堂病院は、
・地方
・地域医療
・実践的看護
を象徴する病院として描かれるのかもしれません。
黒川勝治は、その2つの世界を知る人物として重要な役割を持つ可能性があります。
瀬尾原始とはどんな人物だったのか
風、薫るの黒川勝治 モデル瀬尾原始とは
瀬尾原始(せのおげんし)とは、江戸時代に高田藩の藩医であった瀬尾玄弘(げんこう)の養子。
玄弘は1871(明治4)年に新潟県高田(現在の新潟県上越市)の地に知命堂という医院を開業・経営していたところ、1891(明治24)年に知命堂病院と名前を改め、原始が初代院長に就任。
1894(明治27)年には「知命堂病院附属産婆看護婦養成所」を開校し、1906(明治39)年には「財団法人 知命堂病院」を設立。その後、原始は1912(明治45)年に「財団法人 知命堂病院」の理事長に就任しました。
瀬尾原始と大関和の出会い
瀬尾原始が知命堂病院の初代院長に就任する以前は、帝国大学医科大学第一医院(現在の東京大学医学部附属病院)に在籍していたことがありました。
1888(明治21)年に大関和(「風、薫る」の一ノ瀬りんのモデル)さんが、その帝大医院で看護学生として看護実習を受けていた頃、瀬尾原始は外科助手と兼ねて看護婦養成の任に当たっていました。
和たち六人は、第一医院の看護学生たち二二人とともに「看病の要旨」「薬餌(やくじ)用法」「包帯術」「病褥用器具扱法」「患者運搬法」「患者拭洗及浴方」「消毒法」「汚物扱方」「屍体扱方」の九項目について学ぶ。アグネスのほか、第一医院の医師三浦謹之助、芳賀栄次郎、馬島永徳、瀬尾原始らが指導に当たった。
そのため瀬尾原始は、知命堂病院の院長となる前から、大関和さんのことをよく知っていたのです。
瀬尾原始の知命堂病院で看護長として働いた大関和
帝大医院を辞めさせられた大関和
大関和さんは1890(明治23)年9月、帝国大学医科大学第一医院外科の医局長であった佐藤三吉(「風、薫る」の今井益男のモデル)に対して、看病婦たちの労働条件の改善を目的とした建議書を提出。
このことは周囲の医師たちに問題視され、佐藤三吉は大関和さんの看病婦取締の職を解任。代わりにかつて帝大医院に在籍していた瀬尾原始が、院長を務めることになる知命堂病院へ行くことを勧めます。
最初は高田女学校の舎監となった大関和
もっとも、職を失った大関和さんに先に就職先を斡旋したのは、桜井女学校(現在の女子学院中学校・高等学校の前身の1つとなった学校)の校長・矢嶋揖子(「風、薫る」の梶原敏子のモデル)と経営者のマリア・T・ツルー(メアリーのモデル)でした。
彼女たちは桜井女学校の姉妹校でミッションスクールの高田女学校において、「生徒取締(舎監)」の職を紹介。そのため大関和さんが高田女学校で仕事をするために高田に赴任します。
瀬尾原始から知命堂病院の看護長にスカウトされた大関和
大関和さんが高田女学校で舎監の仕事を始めて1年ごろ、高田の街角で瀬尾原始と「ばったりと再会」。
瀬尾原始は帝大医院で大関和さんのことをよく知っていたため、まもなく開院する知命堂病院の「看護長(現在の看護師長の職に相当)」にスカウトします。
「ばったりと再会」と書きましたが、高田女学校と知命堂病院は徒歩で10分ほどの距離にあり、しかも帝大医院で佐藤三吉が知命堂病院のことをすでに紹介していました。大関和さんと瀬尾原始の再会は、ある程度必然のことだったのかもしれません。
一説によれば、人力車で往診に出かけた瀬尾原始が、道でばったり大関に出合ったことから、知命堂病院に勧誘することになったのだとされている(『日本近代看護の歴史・先駆者を訪ねて』三八頁)。だが前述のように、一年前に帝大医院を辞したとき、佐藤三吉の医局では和に越後高田の瀬尾のところを訪ねてみては、という示唆があったとされたものであれば、このときの二人の出合いは偶然とはいえ、ある程度予定の行動だったといえなくもない。
瀬尾原始との再会の後、大関和さんは校長の栗原トヨ子に了承を得た上で、高田女学校を退職。
1891(明治24)年11月29日に知命堂病院が開院するとともに、大関和さんは「看護長」の肩書でトレインドナースの仕事に復帰することとなりました。
その後、大関和さんは約4年半にわたって知命堂病院の看護長として様々なエピソードを残すことになります。
知命堂病院での瀬尾原始と大関和 結末まとめ 史実エピソード
気管支炎に罹った瀬尾周治の看護
1892(明治25)年11月下旬ごろ、瀬尾原始の次男で1才4ヶ月の周治が気管支カタル(気管支炎)で寝込むようになりました。
しかも病状は衰えることなく、12月に入ると高熱とともに、息も満足にできなくなり、顔が紫色に変色し出しました。看護にあたっていた大関和さんは見かねて周治の口にガーゼをあて、口うつしに息を吹き込み始めます。
現在でいう人工呼吸法ですが、この処置のおかげで周治はいくぶん楽そうな表情になり、原始は大関和さんの咄嗟の処置に感心したと言われています(しかし周治は同年12月7日に死去)。
腸チフスに罹った瀬尾ソノの看護
1894(明治27)年8月1日に日清戦争が勃発。戦争自体は日本の勝利に終わりますが、戦争が終わると清国から帰還した兵士たちを介して、コレラ・赤痢・腸チフスなどの伝染病(感染症)が全国的に蔓延し出します。
この傾向は新潟県でも例外はなく、1895(明治28)年5月下旬ごろには瀬尾原始の妻・瀬尾ソノが腸チフスに感染。
大関和さんが瀬尾ソノの看護を担当することになりますが、全快するまでの70日間の間、大関和さんがソノにつきっきりで看護にあたることになります。
こうした仕事ぶりに瀬尾原始は大関和さんに対する信頼を、ますます深くしたと伝わっています。
2つの看護婦養成所の開設
こうした瀬尾周治や瀬尾ソノに対する看護の間である、1894(明治27)年4月、瀬尾原始は「知命堂病院附属産婆看護婦養成所」という看護学校を開設。
原始は自らが所長となり、大関和さんが知命堂病院の看護長と兼ねて看護学校の講師にも就任します。
ただ上越地方でも感染症の勢いが止まらないことを見てとった瀬尾原始は、私費を投じて「速成看護婦養成所」も設立。この養成所の目的は、感染症患者の看護を担当する看護婦を養成することでした。
おそらくこの「速成看護婦養成所」の運営にも大関和さんが関わる予定だったと考えられます。
しかしこの頃、大関和さんは、恩師であり恩人でもあったマリア・T・ツルーの病状が悪化していることを知り、何としてもツルーの看護をしたいという思いに駆られていました。
そこで大関和さんは、瀬尾原始に理由を話して帰京。約5年にわたる、大関和さんの高田における生活が終わりを告げることになります。
風、薫る 全話あらすじと最終回までのネタバレ
風、薫る 全話あらすじ
「風、薫る」の各週のあらすじについては、下記の記事で詳しく解説しています。
風、薫る 最終回までのネタバレ
「風、薫る」の最終回までの展開や、りん・直美ら主要人物の結末については、下記の記事で詳しく解説しています。
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→ 風、薫る りんはなぜ新潟へ行く?大学病院を離れる理由を史実から考察
参考文献
なお今回の記事を作成するにあたって、下記の文献を参考にしています。これらのうち「明治のナイチンゲール 大関和物語」はNHKの朝ドラ「風、薫る」の原案となっている本です。
