朝ドラ 風、薫る 大家直美のモデル 鈴木雅
鈴木雅は何をした人なのか
NHKの2026年前期朝ドラ「風、薫る」で主人公・大家直美(上坂樹里)のモデルは、鈴木雅さん(1857~1940年)です。
鈴木雅さんは明治時代に「トレインドナース」となり、当時ニーズが多かった「派出看護婦会」を東京で設立します。自ら看護婦として活動し多くの看護婦を養成したことから、明治・大正期を通じて偏見の多かった看護婦という職業分野の確立に多大な貢献をされました。
鈴木雅は何をした人なのか 参考文献
以降では鈴木雅さんは、生涯において何をしたのかを紹介いたします。参考とした文献は以下の3冊です。
- 田中ひかる 「明治のナイチンゲール 大関和物語」 中央公論新社
- 亀山美知子 「大風のように生きて: 日本最初の看護婦大関和物語」 ドメス出版
- 亀山美知子「女たちの約束 M・T・ツルーと日本最初の看護婦学校」ドメス出版
これら2冊のうち「明治のナイチンゲール 大関和物語」は朝ドラ「風、薫る」の原案となっています。また鈴木雅さんの人生を年表にした記事は以下の記事を参考にしてください
鈴木雅とは: 自らトレインドナースに(1887~1888年)
桜井女学校内の桜井看護婦学校に入学
鈴木雅さんは夫・鈴木良文少佐が西南戦争で受けた銃創で亡くなったことがきっかけで、1887(明治20)年1月、桜井女学校(現在の女子学院)内にあった看護婦養成所(桜井看護婦学校)に入学します。
このとき桜井看護婦学校に入学した学生たちの中には、のちに「盟友」となった、1つ年下の大関和(1858〜1932年)さんも含まれていました。
実は鈴木雅さんは結婚する前に、横浜のフェリス・セミナリー(現在のフェリス女学院)に学び、すでに英語を習得していたことから、実習を担当していたエジンバラ王立診療所の看護婦学校を卒業したアグネス・ヴェッチさんの通訳も行うことになります。
第一医院の内科看病婦取締に
鈴木雅さんは1888(明治20年)10月に桜井看護婦学校を卒業。
同期で入学・卒業した桜川里以(さくらがわりい)とともに、 帝国大学医科大学附属第一医院(現在の東京大学医学部附属病院)で内科看病婦取締となります。「看病婦取締」とは現代の言葉を使えば「看護師長」に相当します。
鈴木雅とは: 日本で最初の「派出看護婦会」を設立(1891年)
「慈善看護婦会」の設立
1891(明治24)年、鈴木雅さんは第一医院を退職。桜井女学校の後身である女子学院の設立や経営に大きく貢献したマリア・T・ツルーさんが体調不良のため母国・アメリカに帰国すると聞き、鈴木雅さんはその付き添いと最新の看護学を学ぶために、4月に留学することを決意します。
しかし直前に人力車に衝突する事故に遭い、留学を断念。ケガからの回復をする過程で、派出看護婦会を立ち上げることを思い立ち、11月には日本で最初の派出看護婦会である「慈善看護婦会」を立ち上げます。
「慈善看護婦会」の会則: 1日の看護料の設定など
「慈善看護婦会」の会則によると、1日の派出料は看護婦の格によって以下の通りに分かれていました。
当時、新聞1部の値段は1銭(1円の100分の1)、かけそばは1銭から2銭程度、一般労働者の日給は30銭〜50銭ほどです。
看護婦の格 | 1日の派出料金 (伝染病以外の場合) | 1日の派出料金 (伝染病の場合) |
---|---|---|
一等 | 70銭 | 1円 |
二等 | 50銭 | 75銭 |
三等 | 30銭 | 50銭 |
四等 | 20銭 | – |
また、会則には他に看護料が払えない貧者には無料で看護を行うこと、看護婦を病人看護以外の雑用に使うことを固く断ることや、重症患者を連続で看護する場合は1日に6時間以上の休憩を必要とすることなども盛り込まれていました。
鈴木雅とは: 東京看護婦会の経営(1893〜1896年)
名称を「東京看護婦会」に改称
鈴木雅さんが考えた「慈善看護婦会」という名前は、「慈善」つまり「無償」での看護を強調し、派出看護を上流家庭だけではなく、広く庶民にまで浸透させたいという鈴木雅の気持ちが表れたものでした。
しかし無償の看護によって経営が行き詰まってしまい、「慈善」という文字を外さざるを得なくなります。そこで鈴木雅さんは会を本郷森川町から神田猿楽町に移転するにあたり、会の名称を「東京看護婦会」と改めます。
盟友・大関和を「東京看護婦講習所」に招聘
一方でこの頃から派出看護に対するニーズは急速に高まり、鈴木雅さんの「東京看護婦会」は熟練の看護婦に入会してもらうばかりでなく、自ら看護婦を養成する必要に迫られます。
そこで鈴木雅さんは「東京看護婦講習所」を開設し、その講師に桜井女学校の看護婦養成所に同期で入学・卒業した、大関和さんを招聘しました。
大関和の活躍
派出看護のニーズが高まると同時に、東京府(現在の東京都)には、技量が不十分で質の悪い看護をする派出看護も横行しており、看護婦全体の質が問題視されていました。
事態の深刻さを憂えた大関和さんは内務省衛生局長・後藤新平に涙ながらに「直訴」。政府に看護婦に関する規則改正を訴えます。
さらに業界の自浄作用を働きかけ、派出看護全体の質の向上を目指すために、他の派出看護婦会とも連携し、1899(明治32)年には「大日本看護婦人矯風会」を設立しました。
鈴木雅: 東京看護婦会の経営を大関和に引き継ぐ(1901〜1922年)
「東京看護婦会」が「大関派」と「反大関派」に
鈴木雅さんが招聘した大関和さんが行う看護の評判は患者の間では良かったものの、「東京看護婦会」内の一部の看護婦たちの間で反発や軋轢を生み出します。
大関和さんが行う看護とはキリスト教が持つ慈愛の精神に依るところが大きく、クリスチャンでない看護婦たちにとって、大関和さんの看護は「やりすぎ」にうつったようです。
そのため「東京看護婦会」は「大関派」と「反大関派」のグループに分裂しそうなります。
大関和を「東京看護婦会」の経営者に指名
責任を感じた大関和さんは「東京看護婦会」を辞職。箱根湯本で隠遁生活を始めます。しばらく温泉にでもつかってゆっくりしよと矢先、東京の鈴木雅さんから大関和さんのもとに、「スグニカヘレ」という電報が。
鈴木雅さんは箱根から大関和さんを呼び戻し、「自分は東京看護婦会の経営から下りる」と言って派出看護婦会の経営を全て大関和さんに託してしまったのです。
どうやら鈴木雅さんは、息子の鈴木良一さんとゆっくり暮らしたかったようです。「東京看護婦会」の経営者が鈴木雅さんから大関和さんに交代したのは、1901(明治34)年、鈴木雅さんが44才のときの出来事でした。
その後の鈴木雅さんとその評価
鈴木雅さんは「東京看護婦会」の経営から退いた後も、東京の小石川に家を構えて、大関和さんの求めに応じ会の運営などについて相談にのっていたようです。
しかし小石川の周囲が賑やかになるにつれて、もっと閑静な住宅街を探すようになります。そこで京都の稲荷山で息子・良一さんと住むことを決意。1922(大正11)年に、「盟友」である大関和さんと今生の別れをしました。
この後、鈴木雅さんは82才で亡くなるまで、看護婦に関する仕事をすることはなかったようです。
しかし30才の時に日本社会で全く認知されていなかった「トレインドナース」となることを志し、44才までに自前の「派出看護婦会」を大関和さんに引き継ぐところまでしたことを振り返ると、鈴木雅さんがその後の看護婦や看護師という職業分野に与えた影響は、非常に大きいものであったと言えるでしょう。