木下尚江とはどんな人物だったのか
大関和の再婚相手となったかもしれない木下尚江
NHKの2026年前期朝ドラ「風、薫る」で主人公・一ノ瀬りん(見上愛)のモデルは、大関和(おおぜきちか)(1858~1932年)さんです。
大関和さんは明治時代に「トレインドナース」となり、明治・大正期を通じて偏見の多かった看護婦という職業の確立に多大な貢献をされました。その活躍から大関和さんは「明治のナイチンゲール」とも呼ばれています。
その大関和さんは18才のときに離婚を経験していますが、40才のときに再婚話が浮上します。その相手が社会運動家で、10才年下の木下尚江(きのしたなおえ)(1868~1936年)でした。
木下尚江 プロフィール
1869(明治2)年、長野県松本の生まれ。長野県中学校松本支校(現在の長野県立松本深志高等学校)を経て、1888(明治21)年に東京専門学校(現在の早稲田大学)を卒業。廃娼運動や禁酒運動などの社会運動に関わるようになる。
1899(明治32)年に毎日新聞に入社したのちは田中正造の足尾銅山鉱毒事件問題や普通選挙運動に取り組み、さらには平民新聞の幸徳秋水たちとともに日露戦争に反対の立場を取る。
大関和と木下尚江の恋愛関係とその後
大関和と木下尚江の出会い
大関和さんと木下尚江との初めての出会いは、1891(明治24)年、新潟県の高田での出来事でした。
当時、盛んに行われていた廃娼運動で大関和さんと木下尚江は出会います。廃娼運動とは、女性の人権擁護の立場から遊郭での公娼制度を廃止する運動のことで、2人はこの考えに共鳴していたのです。
小柄ながらも大関和さんの聡明さと大きな瞳に惹かれた木下尚江は、文通を重ねるようになりました。
木下尚江からのプロポーズ
そんな2人の関係に転機がおとずれたのは1898(明治31)年のことです。
1897(明治30)年、木下尚江は普通選挙実現のための活動に従事しており、そのことがきっかけで恐喝詐欺の疑いをかけられて起訴されます。
翌年には重禁錮8ヶ月、罰金10円の判決を受けますが、木下は判決を不服として控訴。そのため東京の鍛治橋にある監獄に未決囚として収監されていました。
大関和さんは、木下が監獄に収監されていることに義憤を感じて、すぐに面会に駆けつけます。やつれた木下の姿に同情した大関和さんは頻繁に慰問に訪れることになります。
木下もいつしかその慰問を心待ちにするようになり、やがて結婚の意志を固めるようになります。
相馬愛蔵の反対
1898(明治31)年12月、木下尚江は無罪が確定し出獄。故郷の信州に戻って、同じ中学校の後輩であった相馬愛蔵(そうまあいぞう)に大関和さんと結婚したいという話を切り出します。しかし相馬愛蔵はこの結婚話に猛反対。
なぜなら相馬愛蔵は、大関和さんが知らなかった木下尚江の「よろしくない行状」を知っていたからです。その「よろしくない行状」とは、木下には廃娼運動に参加しながら遊女を囲っていたり、恋愛の対象となる女性が何人もいたことです。
相馬愛蔵には、木下尚江が純粋な性格の持ち主である大関和さんと結婚をすれば、木下が大関さんを傷つけるとという不安がありました。
相馬愛蔵は木下に結婚を申し込むことを諦めるように必死に説得。説得を受けた木下尚江は深い失望感に襲われながらも、相馬愛蔵の懸念を受け入れ、大関和さんとの結婚をきっぱり諦めます。
大関和の弟子・和賀操と木下尚江の結婚
大関和さんと木下尚江の再婚話は完全に流れましたが、このお話にはまだ続きがあります。
なんと木下尚江は、1900(明治33)年に大関慶さんの「弟子」とも言えるべき存在である、和賀操(わがみさお)さんと結婚するのです。
和賀操さんは盛岡の士族の娘で、「東京看護婦会」付属の「東京看護婦講習所」に学び、卒業後は大関和さんの言葉に従って「婦人矯風会」に入会したという経歴を持ち主です。
「婦人矯風会」に入会後は、慈善事業にも積極的に参加するなど、和賀操さんは大関和さんにとってお気に入りの一番弟子といった存在でした。
「大風のように生きて: 日本最初の看護婦大関和物語」によると大関和さんは自分の再婚話は流れたものの、木下尚江には憎みきれないところがあり、独り身にしておくことを案じていたようです。
大関和さんは自分の最も出来の良い弟子である和賀操さんを木下と娶せて、自分の気持ちを投射しようとしていたと考えられます。
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