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風、薫る 美津 モデル 大関哲(大関和の母) 水野美紀

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目次

風、薫る 一ノ瀬美津(いちのせみつ)のモデル 大関哲

一ノ瀬美津とは

NHKの2026年前期朝ドラ「風、薫る」水野美紀さんが演じる一ノ瀬美津(いちのせみつ)とは、主人公・一ノ瀬りん(見上愛)の母にあたる女性です。

一ノ瀬美津のモデルは、一ノ瀬りんのモデルである大関和さんの母・大関哲(おおぜきてつ)さんがモデルになっていると考えられます。

風、薫る 一ノ瀬美津の役柄

NHKは朝ドラ「風、薫る」では一ノ瀬りんの母である一ノ瀬美津の役柄について、このように紹介しています。

那須にあった小藩の旧藩主の一族として生まれた。農家になり、明治を迎えても気位の高さは失っておらず、いざという時には自らなぎなたを振るう豪胆をもつ。一方で新しい物好きな一面も。

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一ノ瀬美津 役 水野美紀さん プロフィール

1974年生まれ、三重県出身。

NHKでは、『スロースタート』『七瀬ふたたび』『柳生十兵衛七番勝負』『逃げる女』、大河ドラマ『武蔵 MUSASHI』など。

『スローな武士にしてくれ』では、主人公の大部屋俳優・シゲちゃん(内野聖陽)を支える妻を演じた。また、連続テレビ小説『スカーレット』には、ヒロイン喜美子(戸田恵梨香)の生き方に影響を与える新聞記者・庵同ちや子役を好演。

大関和の母・大関哲とは

大関哲は江戸時代中期から明治維新までにかけて、下野国の烏山藩を治めていた大久保家の一族であると考えられます。

黒羽藩を治めていた大関家の一族である、大関弾右衛門増虎「風、薫る」の一ノ瀬信右衛門のモデル)と結婚し、大関和さん・大関釛(「風、薫る」の一ノ瀬安のモデル)さん・大関復彦さんなど、二男三女の合計5人の子供たちをもうけます。

1876(明治9)年に大関弾右衛門増虎が亡くなり、さらに1880(明治13)年に大関和さんが渡辺福之進豊綱と離婚をすると、次女の大関和さん・三女の大関釛さんと共に東京へ移住。

大関和さんが東京における大関家の家計を支えるために外で働いている間、まだ幼かった大関和さんの長男・大関六郎さんと、長女・大関心さんの養育にあたっていました。

大関哲の出自と大関弾右衛門増虎との結婚について

大関哲の出自

《新装版》「大関和」を通して見た日本の近代看護」では大関哲の出自についてこのような記述があります。

大関の父、弾右衛門は五人の子供と下野国烏山城主の娘であった妻の哲を残して傷心のうちに他界するが、その少し前に娘の和を結婚させている。

宮田茂子 《新装版》「大関和」を通して見た日本の近代看護【真説】国家的セクハラを受けた職業集団 星湖舎 17ページ

しかしながら、大関哲が烏山藩を治めていた譜代大名の大久保氏の一族であることは、朝ドラ「風、薫る」の原案となった「明治のナイチンゲール 大関和物語」や、1992(平成4)年にドメス出版から出版された「大風のように生きて: 日本最初の看護婦大関和物語」では記載がありません。

ただNHKは大関哲のモデルとなっている一ノ瀬美津の役柄についてこう説明しています。

那須にあった小藩の旧藩主の一族として生まれた。

2026年度前期 連続テレビ小説「風、薫る」新たな出演者発表! | NHKドラマブログ

大関哲さんが生まれた頃の烏山藩の石高は3万石で、三河以来の譜代大名である大久保氏が治める領地でした。

NHKが「風、薫る」で登場する一ノ瀬美津のキャラクター設定で述べている「那須にあった小藩」とは、実在した烏山藩の想定している可能性が高いでしょう。

大関哲と大関弾右衛門増虎の結婚

上述した3冊の文献には大関哲と大関弾右衛門増虎が、いつ結婚したかについては言及されていません。

夫妻の第二子である大関和さんが1858(安政5)年に誕生した事実を踏まえると、1850年代ごろに2人は結婚していた可能性はあると言えるでしょう。

しかし「武家諸法度」において大名同士の勝手な縁組が禁じられた江戸時代において、烏山藩の譜代大名・大久保家と黒羽藩の外様大名・大関家が縁組をしていたことは奇妙に見えるかもしれません。

譜代大名の娘・大関哲と外様大名の一族・大関弾右衛門増虎はなぜ結婚できたのか?

大関哲さんの実家である大久保家は、祖先を遡ると「神君」と呼ばれた徳川家康以来の譜代大名。

一方、大関弾右衛門増虎の出自となっている大関家は、源平合戦の1つで1185年(文治元)年に行われた「屋島の戦い」において、源義経の家人として平家と戦った那須与一(なすのよいち)にまで遡ることができる那須氏の庶流です。

大久保家は譜代大名として徳川幕府の体制を守る側の一族であり、大関家は徳川幕府の体制内でこそ外様大名の小藩(1万5,000石)と言う小さい存在ながら、那須地方の人たちから尊敬を集める名族中の名族。

「那須の名門」である大関家にとって、徳川幕府の体制下で黒羽藩を存続させるモチベーションは、先祖代々の土地を守り、那須与一をはじめとした祖廟を祀り続けることにあったと考えられます。

そうした歴史的背景を背負っていた黒羽藩の大関家にとって、江戸時代のほとんどを通じて体制側の譜代大名に逆らうつもりなど、全くと言っていいほどなかったのでしょう。

だからこそ譜代大名の娘である大関哲と、外様大名の一族である大関弾右衛門増虎は、大名間の勝手な縁組がタブーとされた江戸時代において、異なる大名家の出身でありながらも結婚することが許されたと推測できます

黒羽藩の中で辱めを受けた大関哲の夫・大関弾右衛門増虎

大正時代になっても名門出身の誇りを持ち続けた大関哲

ここまで今回の記事を読んでいただくと、明治時代に「トレインドナース」となった大関和さんの母である大関哲は武家の出身、それも封建社会の江戸時代においてはかなり身分の高い女性で、かつ婚家も含めて名門の出身であったことが分かるでしょう。

そのことは何も大関哲のプロフィールがそうだったと言う外面的なことだけではなく、内面的にも名家の一員であったと言う誇りは、大正時代になってもなお続いてたと考えられます。

会津戦争では幕府軍ではなく新政府軍に味方した黒羽藩

先に述べた文章において、「大関家の黒羽藩は江戸時代のほとんどを通じて幕府に逆らう気はなかった」と説明しました。

しかし、大関和さんが10才ごろに起こった戊辰戦争(1868年1月~1869年9月)の1つである会津戦争(1868年5月~6月)において、黒羽藩は幕府側に味方する会津藩を攻撃し、新政府軍から感謝状をもらうほどの「活躍」をしてしまったのです。

大関哲の夫・大関弾右衛門増虎は逆賊同然の辱めを受けることに

当時、黒羽藩は先祖代々の外交方針に従って、幕府につくか新政府につくか、藩論が真っ二つに分かれていました。

しかし佐幕派は第15代藩主の大関増裕と、大関哲さんの夫・大関弾右衛門増虎だけ。弾右衛門以外の家老たちをはじめとして藩の主だった藩士たちは全て新政府軍に味方をするつもりでした。

「徳川幕府とは友好関係を保つ」という先祖代々の外交方針を守ることができなかった藩主・大関増裕は、戊辰戦争が始まる前の1867(慶応3)年12月に自決

藩主・大関増裕に取り立てられて国家老にまでなった大関弾右衛門は、黒羽藩の藩内で「逆賊」として白い目で見られるようになります。

弾右衛門自身は明治維新後に藩内で冷遇されたことを受け流していましたが、妻の哲はこうした夫の不名誉な扱いが我慢ならなかったようです。

大正時代に夫の無念を晴らした大関哲のエピソード

亡き夫・大関弾右衛門増虎の無念を訴えた大関哲

1916(大正5)年のある日、80才は過ぎたであろう大関哲の元に、小林華平と名乗る年輩の男性が訪問。小林華平は旧・黒羽藩で大関弾右衛門が、国家老として藩内で硫黄の採掘事業を指揮していた頃、その下で働いていたと言うのです。

実はこの小林華平は、1909(明治42)年に「大関肥後守増裕公略記」を刊行している人物で、そのことがきっかけで田辺実明という男性から頼まれて、当時の黒羽藩の事情をインタビューしにきたのでした。

そのときの大関哲の様子について「大風のように生きて: 日本最初の看護婦大関和物語」ではこのように伝えています。

哲は小林のことを覚えていたようで、懐かしそうな面持ちで小林の話を聞いていたが、小林が田辺に増裕の死について書いたものも与えたと述べるにおよんで涙ながらに話し出した。
「私どもは五〇年来、緘黙(かんもく)を守って一言も申しませんでしたが、もう、この期におよんでは御自害なさったことについて秘密にすることもございません。私の申すことで、かえって賢璋院様(増裕)の名誉を回復できるのしたら、今は何を隠すべきでしょう。
実は御自害の前々夜、亡夫増虎一人をひそかに召されておおせになったというのは…」
哲は、かつて増裕が直接弾右衛門に与えた書状も差し出しながら、当時のことを話し続けた。しかし、涙を抑えようとして遂には声もなくなってしまった。

亀山美知子 大風のように生きて: 日本最初の看護婦大関和物語 ドメス出版 214ページ

この大関哲が小林に話をしたことがきっかけで、今度は依頼主の田辺実明自身が哲を訪問。哲はその田辺に対しても戊辰戦争後に黒羽藩の中で夫・弾右衛門が受けた辱めとその無念さを訴えるのでした。

大関哲の死後に大関弾右衛門増虎の名誉が回復された

なお、大関哲が小林華平と田辺実明のインタビューを受けたという話には後日談があります

田辺実明は大関哲の無念を晴らすために、雑誌「大日本」において3回の連載にわたって第15代藩主・大関増裕とその国家老であった大関弾右衛門増虎の事績について紹介。

さらに1918(大正7)年11月には、雑誌「大日本」に大関増裕と大関弾右衛門増虎の事績が掲載されたことをきっかけとして、大関増裕と大関弾右衛門増虎に対して位階が追贈されることになりました。

1867(慶応3)年12月の自決の直前に従五位下であった大関増裕に対しては正四位を、明治維新後も引き続き硫黄採掘の事業を行っていた大関弾右衛門増虎に対しては正五位が授けられることに

残念ながら、大関増裕と大関弾右衛門に対して位階を追贈するという報せを大関和さんが受けたときには、大関哲はすでにこの世の人ではありませんでした。

しかし「大風のように生きて: 日本最初の看護婦大関和物語」ではもし大関哲が生きていれば、どれほど喜んであろうかと説明されています。

一九一八(大正七)年のことである。和が積年の願いであった父の敬愛する藩主大関肥後守増裕の増位が許される、という報に接したのだった。すでに還暦を迎えていた和にとっては、半世紀の間の恨みと悔しさがすべて報われるときがきたのである。しかも父弾右衛門にも沙汰があった。哲はすでに他界していたが、この報を知ったらどれだけ喜んだことであろうと思うと、和は一人涙にむせぶのだった。

亀山美知子 大風のように生きて: 日本最初の看護婦大関和物語 ドメス出版 227ページ

風、薫る 美津 モデル 関連記事と参考文献

風、薫る 美津 モデル 関連記事

朝ドラ「風、薫る」で水野美紀さんが演じる一ノ瀬美津のモデルとなった、大関哲については下記の記事でも言及しています。

大関哲の夫で、黒羽藩の国家老をつとめた経歴を持つ大関弾右衛門増虎については、下記の記事が参考になるでしょう。

またまた一ノ瀬信右衛門以外で朝ドラ「風、薫る」に登場するキャラクターやそのモデルになった人物たちについては下記の記事が参考になるでしょう。

風、薫る 美津 モデル 参考文献

今回の記事は下記の書籍を参考文献としています。これらのうち「明治のナイチンゲール 大関和物語」は朝ドラ「風、薫る」の原案になっています。

著:田中ひかる
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