朝ドラ「ブラッサム」の主人公・葉野珠のモデルとなった宇野千代(1897~1996年)は、1936(昭和11)年にファッション雑誌「スタイル」を創刊しました。
「スタイル」は戦争による中断を経て戦後に復刊し、大きな成功を収めましたが、1959(昭和34)年に発行元のスタイル社が倒産したことにより廃刊。
この記事では、雑誌「スタイル」とスタイル社の創刊から戦後の成功、倒産までを紹介します。
→ 宇野千代とは?
→ 宇野千代は何をした人?
→ 宇野千代の年表
→ ブラッサム 主人公・葉野珠 モデルは宇野千代
結論|「スタイル」は宇野千代が創刊したファッション雑誌
宇野千代(1897~1996年)が編集や経営に関わった雑誌「スタイル」や、出版社のスタイル社について簡単にまとめると、次のとおりです。
・1936(昭和11)年にファッション雑誌「スタイル」を創刊
・現代の女性誌にも通じる内容で人気を集めた
・戦時中は「女性生活」への改題と会社解散を経て、1946(昭和21)年に復刊
・戦後は4人目の夫・北原武夫とともにスタイル社を共同経営
・ 1959(昭和34)年にスタイル社が倒産し、「スタイル」も廃刊
「スタイル」は、宇野千代が小説家だけでなく編集者・出版事業家としても活躍したことを象徴する雑誌です。
その盛衰は、北原武夫との結婚生活や「ブラッサム」で描かれると考えられる「倒産そして借金」とも深く関係しています。
→ 宇野千代とは?
→ 宇野千代は何をした人?
→ 宇野千代の年表
→ ブラッサム 主人公・葉野珠 モデルは宇野千代
→ 北原武夫とは?宇野千代の4人目の夫
宇野千代が創刊した雑誌「スタイル」とは
1936年に創刊されたファッション雑誌
宇野千代が雑誌「スタイル」を創刊したのは、1936(昭和11)年6月のことです。
宇野千代はすでに「色ざんげ」などを発表する小説家として活躍していましたが、新たにスタイル社を設立して出版事業にも乗り出しました。
「スタイル」は海外のファッションをはじめ、メイクやアートなど、当時としては新鮮だった洗練された情報を紹介する雑誌でした。
なぜ「スタイル」が創刊されたのか?
では宇野千代は「スタイル」を創刊することになったのでしょうか?
宇野千代の自伝「生きて行く私」や宇野千代の詳細な年譜を記した「宇野千代全集 第12巻」では、詳しい理由は書かれていません。
ただ「宇野千代 女の一生」によると、状況証拠的な理由がいくつか挙げられています。
- 1930(昭和5)年ごろには宇野千代はすでに洋服を着こなしていた
- 同棲相手の東郷青児や4番目の夫である北原武夫がとびきりおしゃれな男性だった
- 恋愛相手の好みに合わせることが宇野千代の性分だった
「生きて行く私」では「スタイル」の創刊について当初、
冗談のようなことであったが、
宇野千代 生きて行く私 (角川文庫) (Function). Kindle Edition. No.1802
としていますが、宇野千代にしては比較的消極的な姿勢が、「スタイル」が創刊された理由として考えられるでしょう。
→ 東郷青児とは?宇野千代の同棲相手
→ 北原武夫とは?宇野千代の4人目の夫
→ 宇野千代の4人の夫と同棲相手
「スタイル」は現代の女性誌の先駆けだった
「スタイル」が雑誌のコンテンツとして主に取り上げた内容は以下の通りでした。
・グラビア
・流行チェック
・ヘアスタイル
・人生相談
・外国のスターの動向
今の日本人の感覚からすると、街中で見かける女性誌と変わらないラインナップですが、当時の女性誌としては画期的な内容です。
別の言い方をすると、宇野千代が創刊した「スタイル」とは、現代日本における流行雑誌の先駆けと言える雑誌でした。
スタイル社とは
宇野千代が雑誌を発行するために設立
スタイル社とは、宇野千代が雑誌「スタイル」を発行するために設立した出版社です。
最初の社屋は宇野千代が自宅を構えていた東京・四谷大番町(現在の東京都新宿区大京町)にありました。
「スタイル」の発行にあたって宇野千代は主に編集を担当しましたが、雑誌のモデルとして登場することもあり、流行の先端を行くファッションリーダーとして注目を浴びることもあったようです。
ちなみに「スタイル」の編集担当と言っても、宇野千代が売れっ子作家であったことには変わりはありません。
「スタイル」を創刊した1936(昭和11)年以降も、
・「中央公論」
・「婦人公論」
・「改造」
といった著名な文芸雑誌に宇野千代の小説や随筆が掲載され続けていました。
北原武夫も「スタイル」の編集に参加
「スタイル」の歴史を語るうえで欠かせない人物が、宇野千代の4人目の夫となった北原武夫です。
北原武夫は小説家であるとともに、都新聞の記者を務めた経験を持つ人物でした。
1937(昭和12)年に宇野千代と出会ったのち「スタイル」の編集にも参加。仕事を通じて2人の関係は深まり、1939(昭和14)年4月1日に結婚。
その後、北原武夫は「スタイル」の編集だけでなく、戦後のスタイル社経営でも重要な役割を担います。
北原武夫と宇野千代の出会いから結婚、スタイル社倒産後の借金返済、離婚までについては、下記の記事で詳しく紹介しています。
戦争で「スタイル」はどうなった?
1941(昭和16)年に「女性生活」へ改題
1936(昭和11)年に創刊された「スタイル」でしたが、日本が戦時体制を強めていくと、華やかなファッションを中心とした雑誌を発行し続けることは難しくなりました。
1941(昭和16)年9月号を最後に「スタイル」の名称での刊行を終え、同年10月から「女性生活」と改題(社名はスタイル社から文体社に変更)。
雑誌の内容も華やかな外国人モデルや流行服に代わって、
・もんぺ姿の日本女性
・着物
・扇子
が誌面を埋めるようになり、タイトルも「九月必死奉公号」や「七月決戦生活号」など、およそファッション雑誌には似つかわしくない、戦争色の濃い文字が踊るようになったようです。
1944年に会社を解散
1944(昭和19)年、戦況の悪化に伴い、文体社は解散。
宇野千代と北原武夫は東京を離れて熱海へ疎開し、さらに北原武夫の郷里である栃木県壬生町へ移ります。
宇野千代は自伝「生きて行く私」において、当時のことをこう回想しています。
しかし、言葉は統制されても、人の心まで統制することは出来なかった、と言うことか。
宇野千代 生きて行く私 (角川文庫) (Function). Kindle Edition. No.1859
この言葉はたとえ戦争が激化しても、女性たちのおしゃれ心は消えないこという予見であり、事実として宇野千代の予見は戦後に見事的中しました。
戦後に雑誌「スタイル」が復刊
1946年に「スタイル」が復活
1945(昭和20)年8月に終戦を迎えると、宇野千代と北原武夫は同年11月、疎開先の栃木県壬生町から上京。
産経新聞社の社長であった前田久吉が、「資金援助をする」という声がけをしてもらったことをきっかけに、千代は猛スピードで「スタイル」の復刊に向けて動き出しました。
結局、前田久吉からの資金援助を受ける必要もなく、「スタイル」は1946(昭和21)年の3月号から復刊。
1946年といえば日本は戦争直後の食糧難に喘ぎ、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)を通じてアメリカから1,000トンの小麦粉が緊急輸入された年です。
当時、アメリカからの緊急輸入がなければ、1946(昭和21)年から1947(昭和22)年の冬にかけて万単位の餓死者が発生すると見込まれたと伝わっています。
世の中の食糧事情は危機的な状況であったにも関わらず、「スタイル」の復刊第一号には購読予約が殺到。
「スタイル」はおしゃれに飢えた女性たちから、熱狂的な支持を受けて復活したことを示すエピソードでしょう。
北原武夫が社長、宇野千代が副社長
戦後のスタイル社では、
・社長:北原武夫
・副社長:宇野千代
という体制で経営が行われました。
夫婦は小説家として活動する一方で、出版社を共同で経営するパートナーでもありました。
復刊した「スタイル」は大きな成功を収め、1950年代半ばには発行部数が12万部に達したとされています。
宇野千代は1949(昭和24)年には「宇野千代きもの研究所」を設立し、「スタイル」の臨時増刊として「きもの読本」も刊行しました。
のちに宇野千代がきものデザイナーとして広く知られるようになる背景にも、「スタイル」で培った編集やファッションの仕事がありました。
スタイル社はなぜ倒産した?
競合するファッション雑誌が増加
戦後に大きな成功を収めた「スタイル」でしたが、1950年代になると出版を取り巻く環境が変化します。
女性向けのファッション雑誌が相次いで登場し、「スタイル」は創刊当初のような独自性を保つことが難しくなっていきました。
競争が激しくなるにつれて売上も低迷し、スタイル社の経営は次第に苦しくなります。
税務問題も経営を圧迫
また北原武夫と宇野千代自身にも、スタイル社の経営について気の緩みがあったようです。
税務調査をきっかけに1億円近い追徴課税を受け、会社の資金繰りを大きく圧迫しました。
宇野千代と北原武夫は、熱海の別荘や東京・木挽町の自宅、北原家の実家などを売却して会社の立て直しを図ります。
しかし経営を再建することはできませんでした。
1959年にスタイル社が倒産
1959(昭和34)年、スタイル社はついに倒産。雑誌「スタイル」も同年5月号をもって廃刊となりました。
1936(昭和11)年の創刊から数えると、戦争による中断を挟みながら20年以上にわたって続いた雑誌でした。
スタイル社の倒産によって北原武夫と宇野千代には多額の負債が残ります。
特に社長だった北原武夫が個人保証していた借金は8,000万円以上に及び、2人はその返済に追われることになりました。
スタイル社倒産後の動向
宇野千代と北原武夫は借金を返済
スタイル社が倒産しても、宇野千代と北原武夫の生活がすぐに落ち着いたわけではありません。
2人は小説の執筆など、それぞれの仕事を続けながら長期間にわたって借金を返済しました。
そして1964(昭和39)年、ようやく借金を完済。
ちなみに、このころのちに宇野千代の秘書となる、藤江淳子が宇野千代きもの研究所に経理担当の社員として入社していました。
その藤江淳子は当時の宇野千代の様子を次のように振り返っています。
私が来た当時、先生はスタイル社が倒産したばかりで、とても貧乏でした。
宇野千代・小林庸浩 宇野千代 女の一生 新潮社 17ページ
宇野千代の食卓には、
・シャケ
・アジの干物
・ほうれん草の胡麻和え
など、有名作家の食卓とは思えないほどの質素な料理が並ぶことが多かったそうです。
借金返済後に宇野千代と北原武夫は離婚
ところが借金返済という長年の共通目標を失ったことは、2人の結婚生活にとっても大きな節目となりました。
同年9月、宇野千代と北原武夫は離婚。
1939(昭和14)年から約25年間続いた結婚生活に終止符を打ちました。
つまり雑誌「スタイル」とスタイル社の歴史は、
宇野千代と北原武夫の出会い → 結婚 → 戦争 → 戦後の成功 → 倒産 → 借金返済 → 離婚
という2人の結婚生活とも深く重なっています。
→ 北原武夫とは?宇野千代の4人目の夫
→ 宇野千代の4人の夫と同棲相手
→ 宇野千代の結婚歴
→ 宇野千代はなぜ4回の離婚をしたのか?
「ブラッサム」にスタイル社をモデルとした会社は登場する?
NHKは朝ドラ「ブラッサム」の制作発表で、主人公・葉野珠の人生について次のように紹介しています。
大正から昭和にかけて、関東大震災と戦争、結婚と離婚、倒産そして借金…と、珠は、さまざまな困難にのみ込まれながらも、作家として生きることに向き合います。
葉野珠のモデルとなった宇野千代の生涯で、「倒産そして借金」に当てはまる大きな出来事がスタイル社の倒産です。
このことから「ブラッサム」でも、葉野珠が出版事業などに携わり、その会社が倒産して借金を抱えるまでの展開が描かれる可能性があります。
ただし現時点では、ドラマに登場する会社の名称や設定など、詳細はNHKから発表されていません。
今後、スタイル社をモデルとした架空の会社が登場することが明らかになれば、史実のスタイル社との違いも含めて紹介します。
→ 朝ドラ「ブラッサム」とは?
→ ブラッサム 主人公・葉野珠 モデルは宇野千代
→ ブラッサムに登場する架空の団体・組織の一覧
よくある質問(FAQ)
Q. 宇野千代の「スタイル」とは何ですか?
A. 宇野千代が1936(昭和11)年に創刊したファッション雑誌です。
グラビアや流行、ヘアスタイル、人生相談、外国スターの動向などを掲載し、現代の女性誌にも通じる内容で人気を集めました。
Q. スタイル社とは何ですか?
A. 宇野千代が雑誌「スタイル」を発行するために設立した出版社です。
戦後は北原武夫が社長、宇野千代が副社長を務め、「スタイル」の出版事業を夫婦で支えました。
Q. 宇野千代はなぜ「スタイル」を創刊したのですか?
A. 宇野千代本人は「スタイル」の創刊について「冗談のようなことであった」と回想しており、明確な理由は分かっていません。
ただし宇野千代は以前から洋服を着こなし、東郷青児や北原武夫など、おしゃれな男性との交流からも影響を受けていたと考えられます。
Q. 雑誌「スタイル」はいつ創刊されましたか?
A. 1936(昭和11)年6月に創刊されました。
第一巻第一号は1936年6月1日にスタイル社から発行されています。
Q. 雑誌「スタイル」は戦争中どうなりましたか?
A. 1941(昭和16)年9月号を最後に「スタイル」の名称での刊行を終え、同年10月から「女性生活」に改題されました。
発行元もスタイル社から文体社へ変わり、1944(昭和19)年には戦況の悪化に伴って会社が解散しています。
Q. 雑誌「スタイル」は戦後に復刊したのですか?
A. はい。1946(昭和21)年3月号から復刊しました。
戦後の食糧難が続くなかでも購読予約が殺到し、その後は人気雑誌へと成長。1950年代半ばには発行部数が12万部に達したとされています。
Q. スタイル社はなぜ倒産したのですか?
A. 競合する女性向けファッション誌の増加による売上低迷に加え、税務調査による多額の追徴課税などが経営を圧迫したためです。
会社の立て直しはできず、1959(昭和34)年に倒産しました。
Q. 雑誌「スタイル」はいつ廃刊になりましたか?
A. 1959(昭和34)年5月号を最後に廃刊となりました。
1936年の創刊から、戦争による中断を挟みながら20年以上続いた雑誌でした。
Q. スタイル社の倒産後、宇野千代はどうなりましたか?
A. 宇野千代と北原武夫には多額の借金が残り、2人は仕事を続けながら返済しました。
1964(昭和39)年に借金を完済し、その後、同年9月に約25年間続いた結婚生活を終えて離婚しています。
Q. 「ブラッサム」にスタイル社をモデルとした会社は登場しますか?
A. 現時点では、スタイル社をモデルとした会社の名称や設定はNHKから発表されていません。
ただしNHKは「ブラッサム」のあらすじで、葉野珠が「倒産そして借金」を経験すると発表しています。
モデルとなった宇野千代の生涯を考えると、スタイル社の倒産にあたる出来事がドラマでも描かれると考えられます。
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参考文献
今回の記事は以下の書籍を参考としています。
