小説家・宇野千代(1897~1996年)の人生を語るうえで欠かせない人物が、「中央公論」の編集長・滝田樗陰(たきたちょいん)です。
滝田樗陰は、宇野千代の代表作「墓を発く」を「中央公論」に掲載し、作家として世に送り出した名編集者でした。
しかし、二人の関係は「墓を発く」の掲載前後の頃(1921~1922年)から始まったわけではありません。
実は宇野千代は、東京・本郷の西洋料理店「燕楽軒」で給仕として働いていた頃(1917年)から滝田樗陰の存在を知っており、その後も中央公論社との関係は30年以上にわたって続いていきます。
この記事では、宇野千代と滝田樗陰の出会いから「墓を発く」誕生の裏話、その後の交流、さらに朝ドラ「ブラッサム」の黒崎大三郎(遠藤憲一)との共通点まで詳しく解説します。
▼要点まとめ
・滝田樗陰は「中央公論」編集長として宇野千代の才能を見出した名編集者
・二人の最初の接点は1917(大正6)年、宇野千代が給仕として働いた「燕楽軒」だった
・「墓を発く」掲載後も中央公論社との関係は長く続き、「色ざんげ」「おはん」など代表作も中央公論社から刊行された
・朝ドラ「ブラッサム」の黒崎大三郎(遠藤憲一)は、滝田樗陰がモデルとなった人物の一人と考えられる
→ 宇野千代とは?
→ 宇野千代は何をした人?
→ 宇野千代の年表
→ ブラッサム 主人公・葉野珠 モデルは宇野千代
→ ブラッサム 黒崎大三郎(遠藤憲一)とは?
→ 首都公論とは? 中央公論社(中央公論)がモデルか(準備中)
→ 悠樂軒とは? 燕楽軒はモデルか(準備中)
結論|宇野千代と滝田樗陰の関係とは?
宇野千代(1897~1996年)と滝田樗陰(1882~1925年)の関係を一言でいえば、新人時代から宇野千代を支え続けた編集者と作家の関係です。
滝田樗陰は1922(大正11)年、「中央公論」五月号に宇野千代の「墓を発く」を掲載し、文壇デビューのきっかけを作りました。
しかし、二人の交流はその時に始まったわけではありません。
宇野千代は1917(大正6)年頃、東京の本郷3丁目にあった西洋料理店の「燕楽軒」で給仕として働いていた際、常連客だった滝田樗陰と接点を持っています。
その後も「中央公論」には次々と作品を発表し、宇野千代の代表作である、
も中央公論社から刊行されました。
つまり滝田樗陰は、宇野千代を世に送り出しただけではなく、作家として歩み始めた初期を支えた重要な編集者だったのです。
→ 宇野千代とは?
→ 宇野千代は何をした人?
→ 宇野千代の年表
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→ ブラッサム 黒崎大三郎(遠藤憲一)とは?
→ 首都公論とは? 中央公論社(中央公論)がモデルか(準備中)
→ 悠樂軒とは? 燕楽軒はモデルか(準備中)
燕楽軒で始まった宇野千代と滝田樗陰の出会い
滝田樗陰(たきたちょいん)とは?
滝田樗陰(1882~1925年)は、秋田県出身の編集者・評論家です。本名は滝田哲太郎。
1908(明治41)年に「中央公論」の編集長へ就任すると、それまで宗教や思想を中心としていた雑誌を、文芸・評論を扱う総合雑誌へと発展させました。
さらに滝田樗陰は、
など多くの若い文士たちを積極的に世へ送り出したことから、大正時代を代表する名編集者として知られています。
新人の才能を見抜くことにも優れ、宇野千代が送った122枚の長編小説「墓を発く」を「中央公論」へ掲載したことが、宇野千代の文壇デビューにつながりました。
しかし、宇野千代と滝田樗陰の最初の出会いは、「墓を発く」の投稿よりも数年前にさかのぼります。
なお宇野千代の自伝「生きて行く私」では「瀧田樗陰」と表記されていますが、本記事では「滝田樗陰」と表記しています。
宇野千代と滝田樗陰の出会い
宇野千代と滝田樗陰の最初の接点は、1917(大正6)年頃までさかのぼります。
当時の宇野千代は東京・本郷3丁目にあった「燕楽軒」という西洋料理店で給仕として働いていました。
その「燕楽軒」の近くには中央公論社(現在の中央公論新社)があり、編集長の滝田樗陰は昼食を取るため、たびたび店を訪れていたのです。
宇野千代は自伝「生きて行く私」の中で、「燕楽軒」に来店する滝田樗陰について、印象深い思い出を残しています。
→ ブラッサム 黒崎大三郎(遠藤憲一)とは
→ 首都公論とは? 中央公論社(中央公論)がモデルか(準備中)
→ 悠樂軒とは? 燕楽軒はモデルか(準備中)
滝田樗陰は豪快な常連客だった
宇野千代によれば、滝田樗陰の食事風景とは、
- 猛スピードで食事を平らげる
- 一気にビールを飲み干す
- 会計では食事代のほかチップとして50銭銀貨を必ず置いて店を出る
と、豪快な食べっぷりだったと伝えています。
当時の宇野千代は、滝田樗陰がいつも座るテーブルを担当し、そのチップがもらえることを楽しみにして「燕楽軒」に出勤していたと回想しています。
NHK朝ドラ「ブラッサム」の黒崎大三郎について、
「よく食い、よく笑う」
という人物像が紹介されていますが、燕楽軒での滝田樗陰の豪快な食事風景を思わせる興味深い共通点です。
燕楽軒には文壇の著名人も集まっていた
また滝田樗陰は一人で来店するだけではありませんでした。
燕楽軒には
など、後に日本の文学や芸術を代表するに大きな貢献をする若い文士や芸術家を連れてくることも少なくありませんでした。
宇野千代は給仕として料理を運びながら、日本の文壇を代表する人々を間近に見ることになります。
この時点では、まだ宇野千代自身は作家ではありません。
しかし、後に自らもその文壇へ加わることになるとは、この頃は想像もしていなかったでしょう。
「脂粉の顔」の入選で作家への道を決意
1919(大正8)年、宇野千代は2番目の夫・藤村忠(ふじむらただす)と結婚。北海道の札幌へ移ります。
藤村忠は、東京帝国大学法学部(現在の東京大学法学部)を卒業したのち、北海道拓殖銀行に勤務していたため、生活は安定していました。
しかし宇野千代は、
- 仕立ての内職
- 頼母子講への積み立て
などを積極的に行い、お金を稼ぐことや貯めることに強い関心を持っていました。
「小説は金になる」と確信する
札幌において不満のない暮らしをしていたある日、宇野千代は女学校時代に同人誌を作っていたことを思い出します。
時事新報の懸賞小説へ応募したところ、「脂粉の顔」が一等で入選。1921(大正10)年1月2日のことでした。
そしてその賞金は200円。当時としては非常に高額な賞金であり、宇野千代は後年、「小説は金になる」と思ったことを率直に回想しています。
これを境に、仕立ての仕事をそっちのけにして、小説を書くことへ情熱を注ぐようになりました。
「墓を発(あば)く」を書き上げ中央公論社へ送る
「脂粉の顔」で成功を収めた宇野千代は、さらに本格的な長編小説に挑戦します。
完成した原稿は122枚にも及ぶ「墓を発(あば)く」でした。
原稿の持ち込み先として選んだ出版社が、かつて「燕楽軒」で見かけていた滝田樗陰が編集長を務める中央公論社です。
しかし、原稿を滝田樗陰に送ったのち、札幌で待てど暮らせど何の返事も届きません。
「墓を発く」で文壇デビュー
出版社から返答がなければ多くの人は「落選したのだろう」と諦めてしまうかもしれません。
しかし宇野千代は違いました。
1922(大正11)年4月12日、自ら東京の中央公論社を訪ね、原稿がどうなったのか直接尋ねることにしたのです。
「墓を発く」は「中央公論」五月号に掲載される
中央公論社を訪れた宇野千代が、自分が送った「墓を発く」の原稿がどうなったかと尋ねると、滝田樗陰は机の上に積まれていた雑誌を一冊取り上げ、
「ここに出てますよ。原稿料も持って行きますか?」
とぶっきらぼうな答えが返ってきます。その雑誌こそ、「中央公論」五月号でした。
実は宇野千代の「墓を発く」は、すでに掲載されていたのです。
掲載を知った瞬間の驚きは、宇野千代自身も自伝の「生きて行く私」の中で印象深く回想しています。
原稿料366円を受け取る
さらに宇野千代を驚かせたことが「墓を発く」が掲載されたことで手にした高額の原稿料でした。
支払われた金額はなんと366円。
当時としては非常に高額な原稿料であり、宇野千代は腰を抜かさんばかりに驚いたと回想しています。
「脂粉の顔」の賞金200円に続き、「墓を発く」の366円という成功によって、「小説を書いて生きていく」という決意はさらに強いものとなりました。
岩国へ帰り家族へ報告
原稿料を受け取った宇野千代は、そのまま札幌へ帰るのではなく、まず実家がある故郷・岩国に戻ります。
継母・宇野リュウや5人の弟妹たちに札束を見せ、小説で大金を稼いだことを誇らしく報告しました。
継母・宇野リュウが製糸工場で働くことで岩国高等女学校(現在の山口県立岩国高等学校)を卒業することができた宇野千代にとって、故郷に錦を飾ることができたのです。
→ 宇野千代の継母・宇野リュウ
→ 宇野千代の兄弟 母が異なる5人の弟妹たち
尾崎士郎との運命の出会い
岩国で家族と再会した宇野千代は、2日後に札幌へ戻るための汽車に乗ります。
ところが途中の東京で乗り換え時間があることを知ると、「滝田樗陰へきちんとお礼を言っていなかった」ことを思い出しました。
「墓を発く」掲載時には驚きのあまり十分なお礼もできず、次の仕事についても何一つ話をしていなかったからです。
そこで宇野千代は再び中央公論社を訪ねます。
室伏高信と尾崎士郎を紹介される
中央公論社を訪れると、滝田樗陰は2人の先客を迎えていました。
その人物が
- 室伏高信
- 尾崎士郎
です。
室伏高信(むろふせこうしん)は立ち上がり、「時事新報の懸賞小説で二等に入選した尾崎士郎さんです。」と紹介。
宇野千代は尾崎士郎を見た瞬間、一目で恋に落ちたと回想しています。
なおNHKは「ブラッサム」に登場する若き文士・西尾一路(染谷将太)のモデルは尾崎士郎であることを公表しています。
→ 尾崎士郎とは?宇野千代の3番目の夫
→ ブラッサム 西尾一路(染谷将太)とは?
北海道へ戻らない決断
札幌では、
- 夫の藤村忠
- 新築したばかりの家
- 頼母子講の掛金
が待っています。しかし宇野千代は、そのすべてを捨てることを決意。
尾崎士郎が滞在していた菊富士ホテルで同棲生活を始め、そのまま東京へ留まりました。宇野千代が北海道へ戻ることは、二度とありませんでした。
この偶然ともいえる中央公論社への再訪が、宇野千代の人生を大きく変える転機となったのです。
→ 藤村忠とは? 宇野千代の2番目の夫
→ 尾崎士郎とは? 宇野千代の3番目の夫
→ 宇野千代の結婚歴?
→ 宇野千代はなぜ4回の離婚を経験したのか?
継母・宇野リュウから届いた手紙
その後、札幌の様子は継母・宇野リュウからの手紙によって知らされます。
興味深いことに、その手紙には宇野千代の行動を責めるような言葉は一つもありませんでした。
突然札幌へ戻らなくなった娘を気遣いながら、温かく見守る内容だったと宇野千代は回想しています。
その後も続いた中央公論社との関係
「墓を発く」の掲載は、宇野千代と中央公論社との関係の始まりに過ぎませんでした。
1922(大正11)年には第二作となる「巷の雑音」を「中央公論」八月号で発表。
さらに翌1923(大正12)年には、滝田樗陰自らが宇野千代と尾崎士郎が暮らす「馬込文士村」(現在の東京都大田区南馬込)まで人力車で足を運び、原稿を依頼するようになります。
「中央公論」へ次々と作品を発表
1923(大正11)年には、
- 「追憶の父」(三月号)
- 「人間の意企」(六月号)
- 「お紺の出京」(九月号)
- 「淡墨色の憂愁」(十一月号)
が「中央公論」へ掲載されました。
また、「文藝春秋」八月号には随筆「自嘲」も掲載され、宇野千代は急速に文壇で存在感を高めていきます。
「燕楽軒」で滝田樗陰の食事を運んでいた若い給仕は、わずか数年後には編集長自らが原稿を依頼に来る人気作家へと成長したのです。
「色ざんげ」「おはん」も中央公論社から刊行
宇野千代と中央公論社との縁は、その後も長く続きました。
代表作である
はいずれも中央公論社から刊行されています。
「墓を発く」で始まった編集者と新人作家の関係は、一度きりの出来事ではありませんでした。
中央公論社は、宇野千代が日本を代表する作家へ成長していく過程を長年支え続けた出版社となったのです。
ブラッサムとの関係|黒崎大三郎のモデルは滝田樗陰か
朝ドラ「ブラッサム」に登場する黒崎大三郎(遠藤憲一)は「首都公論」の編集長として紹介されています。
現時点でNHKは黒崎大三郎のモデルを公表していません。
しかし、役柄や人物像を史実と比較すると、滝田樗陰との共通点が数多く見られます。
もちろん、現段階では推測の域を出ませんが、滝田樗陰がモデルとなった人物の一人である可能性は十分考えられるでしょう。
共通点① 「首都公論」編集長と「中央公論」編集長
黒崎大三郎は、日本屈指の文芸雑誌「首都公論」の編集長です。一方、滝田樗陰は実在した文芸雑誌「中央公論」の編集長でした。
雑誌名だけでなく、主人公を支える編集長という立場も一致しています。
→ 首都公論とは?中央公論社(中央公論)がモデルか?(準備中)
共通点② 若い作家の才能を見抜く編集者
NHKは黒崎について、
豪胆な性格と鋭い審美眼で文壇を牽引する存在
さらに、
人の才能を見抜くずば抜けた鋭いエネルギーを持っています。
と紹介しています。
滝田樗陰も、「墓を発く」を掲載して宇野千代を文壇へ送り出した名編集者として知られています。
宇野千代だけでなく、多くの若い文学者を支えたことを考えると、「才能を見抜く編集長」という人物像はよく重なります。
共通点③ 豪快な人物像
遠藤憲一さんは黒崎について
「よく食い、よく笑う」
人物と語っています。
「生きて行く私」には、滝田樗陰が燕楽軒で
- 猛スピードで食事を済ませる
- 一気にビールを飲み干す
- 食事代の他にチップとして必ず50銭銀貨を置いて帰る
という豪快な姿が描かれています。
もちろん、このエピソードだけでモデルと断定することはできません。
しかし、豪快な食べっぷりや豪放磊落な印象は、黒崎大三郎の人物像を連想させる興味深い共通点といえるでしょう。
共通点④ 主人公の人生を大きく変えた存在
NHKは黒崎について、
「珠が黒崎と出会いどうなっていくのか」
とコメントしています。
史実でも、滝田樗陰との出会いは宇野千代の人生を大きく変えました。
「墓を発く」が「中央公論」へ掲載されたことで宇野千代は文壇デビューを果たし、さらに中央公論社で尾崎士郎と運命的に出会うことになります。
編集者としてだけではなく、宇野千代の人生そのものに大きな影響を与えた人物だったことは間違いありません。
よくある質問(FAQ)
Q. 宇野千代と滝田樗陰の関係は?
A. 滝田樗陰は「中央公論」編集長として宇野千代の才能を見出し、「墓を発く」を掲載した名編集者です。
二人の接点は1917(大正6)年頃の燕楽軒までさかのぼり、その後も「中央公論」への作品掲載や「色ざんげ」「おはん」の刊行など、長年にわたって交流が続きました。
Q. 滝田樗陰は宇野千代の何を評価したのでしょうか?
A. 滝田樗陰は、宇野千代が執筆した122枚に及ぶ長編「墓を発く」を「中央公論」五月号へ掲載しました。
新人だった宇野千代の作品を全国的な文芸誌へ掲載したことが、作家として世に出る大きなきっかけとなりました。
Q. 宇野千代が「墓を発く」を発表したきっかけは?
A. 時事新報の懸賞小説で「脂粉の顔」が一等入選し、「小説は金になる」と確信したことがきっかけです。
その後、122枚の長編「墓を発く」を書き上げ、中央公論社へ送ったことで文壇デビューにつながりました。
Q. 宇野千代と尾崎士郎はどのように出会ったのでしょうか?
A. 「墓を発く」掲載後、お礼を伝えるため再び中央公論社を訪れた際、滝田樗陰のもとを訪れていた室伏高信から尾崎士郎を紹介されたことがきっかけです。
宇野千代は尾崎士郎に一目惚れし、札幌へ戻ることなく東京で同棲生活を始めました。
Q. 黒崎大三郎のモデルは滝田樗陰ですか?
A. NHKは黒崎大三郎のモデルを公表していません。
しかし、「首都公論」の編集長であること、主人公の才能を見抜く名編集者であること、豪快な人物像など、滝田樗陰との共通点が数多く見られます。
そのため、滝田樗陰がモデルとなった人物の一人である可能性は高いと考えられます。
まとめ
宇野千代と滝田樗陰の関係は「『墓を発く』の編集者と新人作家」という一言だけでは語り尽くせません。
二人の接点は、宇野千代が燕楽軒で給仕として働いていた頃までさかのぼります。
その後、「墓を発く」の掲載による文壇デビュー、尾崎士郎との運命的な出会い、そして「色ざんげ」「おはん」へと続く長年の交流を通じて、滝田樗陰は宇野千代の作家人生を支え続けた重要な編集者となりました。
朝ドラ「ブラッサム」に登場する黒崎大三郎についても、文芸雑誌の編集長として主人公の才能を見抜き、その人生に大きな影響を与える役柄など、滝田樗陰との共通点が数多く見られます。
今後の放送では、黒崎大三郎が珠の作家人生にどのような役割を果たすのかにも注目したいところです。
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参考文献
今回の記事は以下の書籍を参考としています。
