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風、薫る 大山捨松(多部未華子) 「鹿鳴館の華」とは

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目次

朝ドラ 風、薫ると大山捨松について

大山捨松とは

NHKの2026年前期朝ドラ「風、薫る」に登場する大山捨松(おおやますてまつ)(多部未華子)とは実在の人物です。

大山捨松は1871(明治4)年、11才のときに日本初の女子留学生として津田梅子・永井繁子らと渡米したことで知られています。

留学中にアメリカのヴァサーカレッジを学士号を取得し卒業。1882(明治15)年に帰国。翌1883(明治16)年に陸軍卿・大山巌(おおやまいわお)と結婚。

「鹿鳴館時代」に社交界の中心として有志共立東京病院(現在の東京慈恵医科大学附属病院)への寄付活動に貢献したほか、日本赤十字社篤志看護婦人会などの社会活動や女子英学塾(後の津田塾大学)の設立・運営にも尽力しました。

朝ドラ「風、薫る」における大山捨松の役柄

“鹿鳴館の華”と呼ばれた、時代を象徴する貴婦人。りんと直美の人生に多大な影響を及ぼす。

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大山捨松役 多部未華子さん プロフィール

1989生まれ、東京都出身。

NHKには2007年「すみれの花咲く頃」で初主演。2009年には連続テレビ小説「つばさ」のヒロイン・玉木つばさ役に抜擢される。

大山捨松の出自・名前・家族

大山捨松の出自

大山捨松の父は会津藩の家老・山川尚江重固(やまかわなおえしげかた)で、1,000石(または1,200石)の禄高を与えられていました。

山川家は代々の家老を務めるという家柄ではありませんでした。しかし捨松の祖父にあたる山川兵衛重英(やまかわひょうえしげふさ)が勘定奉行として藩財政を立て直した功績が認められ、それまでの禄高300石から一気に1,000石に引き上げられた過去があります。

大山捨松の名前

大山捨松が1883(明治16)年に大山巌と結婚する前に名乗っていた旧姓は「山川(やまかわ)」です。

また捨松の誕生時の名前は「咲(さき)」で、1871(明治4)年に北海道開拓使が募集する女子留学生に応募したときに「捨松(すてまつ)」と改名しています。

改名した理由は「鹿鳴館の貴婦人大山捨松: 日本初の女子留学生」の著者で大山捨松のひ孫にあたる久野明子さんは自著の中でこのように説明しています。

この時、母唐衣はお国のために愛する娘を遠い異国に旅立たせなければならない母親の切ない気持ちをこめて、幼名咲子を「捨松」と改名している。これがお前との永の別れとなるかもしれない。私はお前を捨てたつもりで遠いアメリカにやるが、お前がお国のために立派に学問を修めて帰ってくる日を毎日心待ちにして待っているよ、という気持ちをこの二つの字にこめたのであった。

久野明子 鹿鳴館の貴婦人大山捨松: 日本初の女子留学生 (中公文庫 く 12-1) 66ページ

大山捨松の家族

捨松には父・山川尚江重固と母・唐衣(艶)の他に、本人を含む12人の兄弟がいて、そのうち成人に達したのは7人いました。

  • 長女: 二葉(ふたば)(1844~1909年)
  • 長男: 浩(ひろし)(1845~1899年)
  • 次女: ミワ(みわ)(1847~1933年)
  • 三女: 操(みさお)(1852~1931年)
  • 次男: 健次郎(けんじろう)(1854~1932年)
  • 四女: 常盤(ときわ)(1858~?年)
  • 五女: 捨松(すてまつ)(1860~1919年)

大山捨松の動向

大山捨松の年表

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西暦(和暦)年齢(満年齢)出来事
1860(万延元)年2月24日0才会津藩家老・山川重固の末娘・咲として会津若松で誕生
1868(慶応4)年8月23日8才会津戦争が勃発。母・唐衣(艶)や姉たちとともに鶴ヶ城(会津若松城)に籠城
1868(明治元)年9月8才会津藩が新政府軍に降伏。家族とともに塩川村へ移送される
1871(明治4)年2月11才家族とともに下北半島の斗南藩に移る。のちに咲だけ箱館に移される
1871(明治4)年10月11才北海道開拓使が募集する女子留学生に応募。名前を「咲」から「捨松」に改名
1871(明治4)年11月11才岩倉使節団とともに横浜港から渡米留学
1872(明治5)年10月12才コネチカット州のニューヘイブンにあるベーコン牧師宅でホームステイを開始
1875(明治8)年9月15才ニューヘイブンのヒルハウス高校に入学
1878(明治11)年9月18日18才ニューヨーク州のヴァサーカレッジに入学
1882(明治15)年6月14日22才ヴァサーカレッジを卒業
1882(明治15)年7月22才ニューヘイブンのコネチカット看護婦養成学校に短期入学
1882(明治15)年10月31日22才津田梅子とともに帰国。11月21日に横浜港に到着
1883(明治16)年11月8日23才陸軍卿・大山巌と結婚
1884(明治17)年2月24才伊藤博文より華族女学校(現在の学習院女子中・高等科)の設立準備を依頼される
1884(明治17)年6月12日24才捨松の企画による鹿鳴館慈善バザーが開催される
1884(明治17)年11月1日24才大山巌の四女・久子を出産
1886(明治19)年2月16日26才大山巌の長男・高を出産
1889(明治22)年6月2日29才大山巌の次男・柏を出産
1894(明治27)年9月16日34才日清戦争勃発により夫・大山巌が第二軍司令官として出征
1900(明治33)年7月26日40才津田梅子が設立した女子英学塾(現在の津田塾大学)の顧問となる
1904(明治37)年7月6日44才日露戦争勃発により夫・大山巌が満州軍総司令官として出征
1905(明治38)年1月1日45才日本赤十字社篤志看護婦人会として救援活動を活発に行う
1908(明治41)年4月30日48才長男・高が軍艦「松島」の火災事故に巻き込まれ海軍少尉候補生として殉職
1916(大正5)年12月10日56才夫・大山巌が死去
1919(大正8)年2月18日58才スペイン風邪(インフルエンザ)に罹患し死去

大山捨松の看護婦資格について

大山捨松の年表を見ると、1882(明治15)年7月にコネチカット州・ニューヘイブンのコネチカット看護婦養成学校に短期入学したとあります。

捨松は同年の6月にはすでにヴァサーカレッジを卒業し、10月には日本へ帰国することが決まっていました。上述した久野明子によると、帰国までの数ヶ月間を無為に過ごさないためであろうと推測されています。

コネチカット看護婦養成学校に短期入学したものの、このときの大山捨松は日本で看護婦になろうというほど積極的な気持ちではなかったそうです。

しかし捨松がコネチカット看護婦養成学校で身につけた知識や経験は、のちに日本でも看護学校を作ることの必要性や日本赤十字社篤志看護婦人会で衛生学や看護法の普及をするときに役立つこととなります。

風、薫る 大山捨松 関連記事と参考文献

風、薫る 大山捨松 関連記事

朝ドラ「風、薫る」や、その主人公のモデル・一ノ瀬りん見上愛)のモデルとなった大関和さんと大山捨松の関わりについては以下の記事でも言及しています。合わせて参考にしてください。

また大山捨松自身に関わる話題に関しては下記の記事が参考となるでしょう。

風、薫る 大山捨松 参考文献

今回の記事は以下の書籍を参考文献としています。

著:久野 明子
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著:遠藤 由紀子
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