記事の要約
風、薫る 大山捨松のネタバレと史実まとめ
- 朝ドラ「風、薫る」に登場する実在の大山捨松(多部未華子)は1884(明治17)年6月に「鹿鳴館慈善バザー」を開催
- 大山捨松たちによって行われた「鹿鳴館慈善バザー」の収益金は全額が有志共立東京病院看護婦教育所(現在の慈恵看護専門学校)の設立に充てられる
- 1887(明治20)年に「日本赤十字社篤志看護婦人会」の発起人として名前を連ね日本の看護婦養成に尽力
- 1919(大正8)年、インフルエンザに罹患し死去。享年59。
大山捨松の史実エピソード
鹿鳴館慈善バザーの収益金を有志共立東京病院看護婦教育所の設立に充てる
日本人女性初の官費留学生だった大山捨松は、1882(明治15)年10月にアメリカから帰国。1883(明治16)年11月、当時の陸軍卿(陸軍大臣)・大山巌と結婚。この頃から上流階級の貴婦人たちとの交際が多くなります。
そんなある日、大山捨松は有志共立東京病院(現在の東京慈恵医科大学附属病院)を視察。病棟の看護人が男性ばかりであることに疑問を感じます。
二年前、、で学んだばかりの捨松は、日本の病院や看護婦がどのような状況に置かれているかとても関心があった。病室を訪れると驚いたことに男性が病人の世話をしているではないか。早速、捨松は高木兼寛院長に、「外国では看護人には女性を採用しているを御存じのはずなのに、何故女性をお使いにならないのですか」と質問し、女性のほうが生まれつききめ細かな看護に向いているし、病人にとっても女性のほうが気持が和むものだと説明した。院長は「ごもっともな御説ですが、何分経費が足りず、看護婦養成所を作りたくてもとても手が回りません」と答えている。
久野明子 鹿鳴館の貴婦人大山捨松: 日本初の女子留学生 (中公文庫 く 12-1) 215ページから216ページ
院長の高木兼寛から「看護婦を養成するためのお金がない」と言われた捨松は、留学生のときに住んでいたアメリカ・コネチカット州のニューヘイブンで開かれていた慈善事業のバザーを思い出します。
19世紀末の日本では「慈善(ボランティア)」や「寄付」といった考えは全くの埒外でしたが、アメリカにおいてはすっかり根付いていました。
さっそく大山捨松は、外国との不平等条約を解消することを目的として建設された社交場である「鹿鳴館」を使って慈善バザーを企画。1884(明治17)年6月12日から3日間、「鹿鳴館慈善バザー」を開催しました。
鹿鳴館の2階にバザーの売場が設けられ、皇族・華族・政府高官たちをはじめとして会期中には約1万2,000人が入場。収益も当初の目標であった1,000円をはるかに超える8,000円が集まり、大山捨松たちは収益の全額を有志共立東京病院に寄付。
このときの寄付金がもとになって有志共立東京病院看護婦教育所(現在の慈恵看護専門学校)が設立されます。
ちなみに大関和(「風、薫る」の一ノ瀬りんのモデル)さんの長女である大関心さんは、女子学院を卒業したのち、有志共立東京病院看護婦教育所がのちに名称を変えた慈恵看護婦教育所に、看護学生として入学することになります。
日本赤十字社に看護婦の養成を働きかける
大山捨松は「鹿鳴館慈善バザー」を開催したのちも、トレインドナースの育成に関心を持ち続け、日本赤十字社にその育成を働きかけています。
明治二十年の六月に発足された「日本赤十字社篤志看護婦人会」の発起人として有栖川宮妃殿下を初めとして皇族、華族の夫人達の名前が見られるが、当時の貴婦人達が看護活動の何たるかを知るはずはなく、アメリカで看護学を学んだ捨松が実際にはその大きな推進力となったのである。
大山捨松は、アメリカのニューヘイブン看護婦養成学校で「甲種看護婦免状」を取得したトレインドナースでもありましたが、看護婦として病院勤務などはしたことはありません。
しかし、捨松は「官費留学生」であり「政府高官の妻」であることを常に自覚し、「自分は日本のために何ができるか」を考え続けた女性です。
結果として日本の看護業界に貢献するためには、看護婦としての実務をするよりも「資金集め」をしている方が適していると考え、「鹿鳴館慈善バザー」を企画したり、日本で最初のボランティア組織である「日本赤十字社篤志看護婦人会」の発起人となった見られます。
もっとも1904(明治37)年2月に日露戦争が開戦したのちは、大山捨松は資金集めをしていただけでなく、率先して日本赤十字社の病院で包帯作りに励んだり、戦死した兵士の家族に対する慰問活動にも飛び回っていました。
大山捨松の最期: 死因はインフルエンザ
なお大山捨松は、1919(大正8)年2月18日の午後4時20分に死去します。享年59。
死因は、当時流行っていたスペイン風邪(インフルエンザ)であったと考えられています。亡くなる前には40度近い高熱が出て肺炎を併発。さらに呼吸困難も伴っていました。
大山捨松のひ孫にあたる久野明子さんは、その著書である「鹿鳴館の貴婦人大山捨松: 日本初の女子留学生 (中公文庫 く 12-1)」の中で、インフルエンザのワクチン注射が死期を早めた可能性があると指摘しています。
嫁の武子の話によると、捨松は医者がワクチン注射を打った直後に、急に体が震えだし、顔色が変わって呼吸が止まってしまったという。捨松は極度のアレルギー体質だったので、このワクチン注射のショックで死期を早めてしまったのかもしれない。
大山捨松と大関和の関係について 史実はどうなっているのか?
大関和に英語通訳の仕事を紹介したとされる大山捨松
NHKは朝ドラ「風、薫る」に登場する大山捨松の役柄について、「りんと直美の人生に多大な影響を及ぼす」と説明しています。
さらに「風、薫る」の原案となった「明治のナイチンゲール 大関和物語」に登場する大山捨松は鹿鳴館で開催された「婦人慈善市(鹿鳴館慈善バザーのこと)」で大関和さんと知り合い、大関和さんが英語が話せることを知ったのち鹿鳴館の通訳の仕事を紹介するという話の流れです。
数日後、慶は鄭永寧をとおして、捨松から思いがけない誘いを受けた。鹿鳴館で通訳をしないかというのだ。所属は婦人慈善会で、給与もそこから出る。どうやら通訳の仕事は二の次で、昼間、婦人慈善会の会員たちに英語を教えることがおもな仕事のようだ。
「鹿鳴館時代」における大関和の消息は「不明」とする説
確かに大山捨松は、外交施設だった鹿鳴館において、1884(明治17)年6月12日から14日までの間に「鹿鳴館慈善バザー」を開催しています。
その史実については、大山捨松の伝記小説「鹿鳴館の貴婦人大山捨松: 日本初の女子留学生」などで、バザーの様子が詳しく紹介されています。
ただその中で大山捨松が「大関和さんと知り合った」や、「大関和さんに英語通訳の仕事を紹介した」という記述は見当たりません。
また別の大関和さんの伝記小説である「大風のように生きて: 日本最初の看護婦大関和物語」では、東京に移住する1883(明治16)年から、牧師・植村正久(「風、薫る」の吉江善作のモデル)にトレインドナースになるよう勧められる1886年(明治19)年までの間、いわゆる「鹿鳴館時代」における大関和さんの動向について、詳細はよく分からないとしています。
東京へ出てからの和の消息は詳細にはわからないが、洋装姿の写真が残されており、鹿鳴館時代の当時、和もまた社交界にも姿をみせることがあったのであろう。
「大風のように生きて: 日本最初の看護婦大関和物語」では、大関和さんが英語塾に通っていたことについては言及しているものの、大山捨松と大関和さんが直接交流を持ったというエピソードは紹介されていません。
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風、薫る 大山捨松 どうなる 参考文献
なお今回の記事を作成するにあたって、下記の文献を参考にしています。これらのうち「明治のナイチンゲール 大関和物語」はNHKの朝ドラ「風、薫る」の原案となっている本です。
