相馬愛蔵とはどんな人物だったのか
大関和と生涯の親交があった相馬愛蔵
NHKの2026年前期朝ドラ「風、薫る」で主人公・一ノ瀬りん(見上愛)のモデルは、大関和(おおぜきちか)(1858~1932年)さんです。
大関和さんは明治時代に「トレインドナース」となり、明治・大正期を通じて偏見の多かった看護婦という職業の確立に多大な貢献をされました。その活躍から大関和さんは「明治のナイチンゲール」とも呼ばれています。
そんな大関和さんが看護をした人物にはさまざまな有名人がいます。そのうちの一人が、和洋菓子やパンの製造販売で有名な「新宿中村屋」を創業した実業家の相馬愛蔵(そうまあいぞう)(1870~1954年)です。
相馬愛蔵 プロフィール
1870(明治3)年、長野県安曇野市穂高に誕生。長野県中学校松本支校(現在の長野県立松本深志高等学校)を経て、1890(明治23)年に東京専門学校(現在の早稲田大学)を卒業。卒業後は北海道に渡って養蚕を学ぶ。
1897(明治30年)に星良(相馬黒光)と結婚したのち、1901(明治34)年12月に東京・本郷の帝国大学(現在の東京大学)前でパン屋を創業。1904(明治37)年には「クリームパン」や「クリームワッフル」を売り出し好評を得る。
1909(明治42)年、新宿の支店を本店として、現在の「新宿中村屋」とする。
大関和と相馬愛蔵の親交
大関和と相馬愛蔵の出会い: 帝大病院での疥癬治療
大関和さんと相馬愛蔵が初めて出会ったのは、1889(明治22)年に帝国大学医科大学附属第一医院(現在の東京大学医学部附属病院)に相馬愛蔵が入院してきた時のことでした。
当時、相馬愛蔵は信州から東京専門学校に入学するために上京したての頃でしたが、中学校の先輩から疥癬をうつされてしまい、帝大の皮膚科にかかることに。
この時代の疥癬治療は患部に硫黄を含有した軟膏を塗ることでした。ただしこの硫黄製剤の欠点は、硫黄特有の強烈な腐卵臭を放つことです。そのため患者本人はもちろんのこと、訓練受けたはずのトレインドナースさえ、硫黄軟膏の匂いに悩まされることになります。
しかし、疥癬の治療が長引き入学が遅れることを危惧した相馬愛蔵は、外科の看病婦取締(看護師長のこと)であった大関和さんにお願いし、1日に1回薬を塗るところを、1日に3回塗ってもらうことに。
おかげで相馬愛蔵はわずか1週間で治療を終え、退院することができました。
大関和と木下尚江の結婚を阻止
大関和さんと相馬愛蔵のエピソードで最も有名なものが、大関和さんが、社会運動家の木下尚江(きのしたなおえ)と再婚することを阻止したことです。
1898(明治31)年、木下尚江は、10才年上の大関和さんにプロポーズをしようとします。しかし長野県中学校松本支校で木下尚江の後輩であった相馬愛蔵はこの結婚話に猛反対。
相馬愛蔵が大関和さんと木下尚江の結婚に反対した理由は、木下尚江の不行状をよく知っていたからです。木下は廃娼運動に参加する一方で、自ら遊女を囲っていたり、恋愛の対象となる女性が何人もいたのです。
大関和さんはこれらの「不行状」については全く知らず、相馬愛蔵は同じ中学の先輩・後輩の間柄であったため知り得ていました。
相馬愛蔵は、木下尚江の無軌道な愛は、純粋な性格な持ち主である大関和さんを必ず傷つけてしまうと考え、木下に結婚を諦めるよう説得。
木下は相馬愛蔵の只事ならぬ雰囲気に圧倒されて、やむなく大関和さんとの結婚を断念することになります。
大関和 再婚 木下尚江との関係について
大関和の再婚・木下尚江との関係 関連記事
今回の記事に登場した大関和さんの再婚話や木下尚江という人物については、それぞれ下記の記事に詳細をまとめています。合わせて参考にしてください。
参考文献
大関和さんの再婚話や木下尚江、相馬愛蔵といった人物との関係については下記の文献を参考にしています。これらのうち「明治のナイチンゲール 大関和物語」は朝ドラ「風、薫る」の原案となっています。