大関弾右衛門増虎の死
大関弾右衛門増虎の死因
NHKの2026年前期朝ドラ「風、薫る」で主人公・一ノ瀬りん(見上愛)のモデルは、大関和(おおぜきちか)(1858~1932年)さんです。
その父である大関弾右衛門増虎は病気のため1876(明治9)年に病気のために亡くなります。享年50。
大関弾右衛門増虎の死因については「大風のように生きて 日本最初の看護婦 大関和物語」では「病気」、「明治のナイチンゲール 大関和物語」では「流行り病」とだけ記されており、具体的にどんな病気で亡くなったかは記されていません。
大関弾右衛門増虎の最期
「明治のナイチンゲール 大関和物語」によると、大関弾右衛門増虎の最期は呆気ないものであったとされています。
明治九(一八七六)年、弾右衛門は一八歳になった和の縁談をまとめると間もなく、五〇歳で流行り病に倒れた。このとき哲がなけなしの金をはたいて連れてきたのは、近所で評判の拝み屋であった。拝み屋の指示どおり疫病退散の札を貼り、まじないを唱えたが、弾右衛門は呆気なく逝ってしまった。和が命のはかなさを知った最初である。
田中ひかる. 明治のナイチンゲール 大関和物語 (pp. 9-10). (Function). Kindle Edition.
のちに桜井女学校(のちの女子学院)内の看護婦養成所で、ナイチンゲール方式の看護学を身につけることになる大関和さんの父が、科学的根拠がない拝み屋の指示のもとに亡くなるとは何とも皮肉なものであるとしか言いようがありません。
亡くなる直前に大関和の縁談をまとめていた
「明治のナイチンゲール 大関和物語」からの引用では、大関弾右衛門増虎はその死の直前に大関和さんの縁談をまとめていたとあります。
弾右衛門が亡くなる直前にまとめていた縁談話については「大風のように生きて 日本最初の看護婦 大関和物語」でも述べられており、その縁談の相手とは黒羽藩の元・士族である渡辺福之進豊綱のことです。
しかしこの縁談そのものは大関和さんにとっては幸福なものではなく、数年後には離婚に至ります。大関和さんの結婚生活の詳細については以下の記事が参考になるでしょう。
大関弾右衛門増虎 死後のエピソード
弾右衛門と旧知であった長田銈太郎の看護
大関弾右衛門増虎はさまざまなエピソードや逸話をもつ人物でしたが、その死後についてもエピソードをもつ人物です。その1つが娘の大関和さんがトレインドナースとして、長田銈太郎という外交官の看護をした話です。
長田銈太郎は生来からの癇癪持ちで、病床にあっても周囲の言うことを聞かず家族や書生たちには当たり散らし、看護のためにやって来た大関和さんのことも無視していました。
しかし何気ない会話の中で大関和さんが黒羽藩の家老・大関弾右衛門の娘であることを知ると、急に態度を改めて養生に努めたと言われています。
「君は、生まれはどこか」
「栃木県です」
「なに、栃木県だと。栃木県はどこだ」
「那須郡黒羽です」
「那須郡黒羽だ、あすこには旧幕時代、若年寄の大関肥後守の家来に、大関弾右衛門という人があったが知っているか」
「はい、その娘です」
「なに、弾右衛門殿の娘だ、道理で大関姓を名乗っておると思った。そうか、御家老弾右衛門殿にフランス人との通訳をしてあげたことがあった。その娘ごが看護婦になったのか、それにしても不思議なめぐり合わせであるのう」亀山美知子 「大風のように生きて: 日本最初の看護婦大関和物語」 ドメス出版 49ページから50ページ
生前の弾右衛門は黒羽藩家老として藩内で産出される硫黄の採掘とその販売に関わっていたことから、長田銈太郎は弾右衛門がフランス人と会話をするためにフランス語の通訳をしていてくれたのです。
そのため長田銈太郎は弾右衛門の娘である大関和さんには頭が上がらなかったのでした。
「正五位下」の位階が追贈される
また弾右衛門は黒羽藩の家老を退いたのちも、なお南東北地方で硫黄の採掘事業に従事していました。1918(大正7)年にはその事業の功績が認められ、政府から「正五位」の位階が死後追贈されています。
弾右衛門が黒羽藩の家老職を辞したときには、他の家老たちから辱めを受けたと感じていた大関和さんにとって、弾右衛門の名誉回復は何よりの喜びであったと言われています。
大関弾右衛門増虎の関連記事と参考文献
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大関弾右衛門増虎 参考文献
今回の記事を書くにあたって以下の2冊の本を参考にしています。これらのうち「明治のナイチンゲール 大関和物語」は朝ドラ「風、薫る」の原案にもなっています。