『中央公論』の名編集者・滝田樗陰(たきたちょいん)(1882~1925年)は、晩年に腎臓病と喘息を患い、1925(大正14)年10月27日に43歳で亡くなりました。
晩年には全身のむくみや視力障害などの症状が現れ、療養生活を送りながらも『中央公論』の編集を気にかけていました。
本記事では、杉森久英氏の著作をもとに、滝田樗陰の病状や食生活、最期の様子、死後の中央公論社と嶋中雄作の動向を解説します。
【結論】滝田樗陰は腎臓病と喘息を患い、1925年10月27日に43歳で死去
滝田樗陰は1923(大正12)年秋ごろから喘息に悩まされ、1924(大正13)年末には腎臓も患うようになりました。
1925(大正14)年には病状が悪化し、全身のむくみや視力障害などが現れ、同年10月27日に43歳で亡くなりました。ただし、直接の死因となった医学的な病名までは確認できません。
滝田樗陰の死後、『中央公論』では編集体制の見直しが進み、1928(昭和3)年には、かつて滝田樗陰のもとで経験を積んだ嶋中雄作が中央公論社の社長に就任しています。
滝田樗陰の死因とは?腎臓病と喘息の経過
1923(大正12)年秋から喘息を患う
『中央公論』の名編集者として知られる滝田樗陰(たきたちょいん)(1882~1925年)は、晩年に喘息や腎臓病を患い、1925(大正14)年10月27日に亡くなりました。
杉森久英『滝田樗陰 『中央公論』名編集者の生涯』によると、滝田樗陰はもともと体が丈夫な方ではなく、冬になると喘息に悩まされていました。
1923(大正12)年秋から翌1924(大正13)年春にかけては病床につくことが多くなり、健康状態に不安を抱えるようになります。
このころの滝田樗陰は、編集者として多忙な日々を送る一方で、次第に体調を崩すようになっていました。
1924(大正13)年末には腎臓を患い、病床につく
滝田樗陰の健康状態は、1924(大正13)年末になるとさらに悪化。
それまで患っていた喘息に加えて腎臓にも異常が生じ、病床につくようになったのです。
翌1925(大正14)年に入ってからも病気は回復せず、編集者としての仕事を続けることが困難に。
それでも滝田樗陰は『中央公論』の編集に強い関心を持ち続け、病気療養中も雑誌や会社のことを気にかけていました。
1925(大正14)年春から病状が悪化
1925(大正14)年になると、滝田樗陰の病状は一段と悪化しました。
同年1月から3月にかけては病床で過ごすことが多くなり、4月にはようやく外出できるようになったものの、本格的な回復には至りませんでした。
5月には一時的に活動する姿も見られましたが、健康状態は不安定なままでした。
当時、滝田樗陰の周囲にいた編集者や作家たちも、その体調を心配していました。
しかし本人は病気を抱えながらも、従来どおり編集者として活動しようとしていたのです。
腎臓病の悪化によって全身にむくみや視力障害が生じる
1925(大正14)年夏になると、滝田樗陰の病状はさらに深刻に。
杉森久英の著作によると、同年8月には腎臓病と喘息の症状が悪化し、病床で過ごす日々が続いています。
やがて尿の排出が困難になり、全身にむくみが生じるようになりました。
治療では肩や手足の皮膚を切って水分を取り除く処置が行われたほか、後には脳にも障害が現れ、視力が低下して物が二重に見えるようになったとされています。
こうした症状から、滝田樗陰の病気は腎臓だけでなく、全身に深刻な影響を及ぼしていたことがわかります。
滝田樗陰の食生活と健康状態
太っていて血色もよかったが、実際には丈夫ではなかった
滝田樗陰は、周囲から見ると健康そうな体格をしていました。
杉森久英の著作では、滝田樗陰について、太っていて血色もよく、一見すると健康そのもののように見えたと紹介されています。
しかし、実際にはそれほど丈夫な体ではなかったようです。
冬になると喘息を患い、晩年には腎臓病にも苦しむようになりました。
外見から受ける印象と、実際の健康状態には大きな違いがあったのです。
大食家として知られ、一度に大量の料理を食べた
滝田樗陰は大食家としても知られていました。
杉森久英の著作には、その食欲の旺盛さを示すエピソードが数多く紹介されています。
例えば、料理屋では大量の料理を平らげ、さらに酒を飲むこともあったといいます。
一度にビールを何本も飲み、料理を大量に食べても、平然としていたという逸話も残されています。
また、滝田樗陰は自分が健康であることを示すかのように、食欲の旺盛さを周囲に語ることもありました。
しかし、こうした食生活が続く一方で、本人の体調は次第に悪化していきました。
平福百穂は過飲過食が病気の原因ではないかと推測
滝田樗陰と同じ秋田県出身の画家・平福百穂は、その健康状態について、過飲過食が病気の原因ではなかったかと推測していました。
杉森久英の著作では、滝田樗陰の旺盛な食欲について、単に健康だったからではなく、健康への不安を打ち消そうとしていた可能性も指摘されています。
滝田樗陰は、食べることによって自分の健康を確かめようとしていたのかもしれません。
ただし、過飲過食が腎臓病や喘息の直接的な原因だったと医学的に確認されているわけではありません。
平福百穂の見解は、滝田樗陰の生前の生活ぶりを知る人物による推測として理解する必要があります。
→ 滝田樗陰とは?
滝田樗陰の晩年と最期
病床でも『中央公論』の編集を気にかけていた
滝田樗陰は病気療養中も、『中央公論』の編集や中央公論社の経営を気にかけていました。
1925(大正14)年春には一時的に外出できるようになり、会社へ顔を出したり、関係者と会ったりすることもありました。
しかし、病状は安定せず、以前のように仕事を続けることは難しくなっていました。
このころ『中央公論』では、新人作家の作品掲載や編集方針をめぐって、滝田樗陰と部下の編集者との間に意見の対立も生じていました。
滝田樗陰は自分が長年にわたって育ててきた雑誌に強い愛着を持っており、病気になっても編集への関心を失うことはありませんでした。
1925(大正14)年7月から長期療養に入る
1925(大正14)年7月になると、滝田樗陰は本格的な療養生活を送るようになりました。
病状が悪化していたため、外出する機会は減り、自宅で治療を受ける日々が続きました。
同年8月には症状がさらに悪化し、訪問客との面会も難しくなっていきました。
杉森久英の著作によると、滝田樗陰は病床にありながらも、周囲の人々に気を配り、見舞いに来た人たちと話そうとすることがありました。
また、病気の苦しさを抱えながら、自分の余命を意識していたことをうかがわせる言動も残されています。
1925(大正14)年10月27日に容体が急変して死去
1925(大正14)年10月27日の朝、滝田樗陰の容体が急変。
杉森久英氏の著作によると、その前夜には比較的気分がよく、家族も回復への期待を抱いていました。
しかし、翌朝になると滝田樗陰は胸の苦しさを訴え、医師が呼ばれる事態となりました。
医師による処置が行われましたが、症状は改善せず、そのまま亡くなりました。
滝田樗陰は1882(明治15)年生まれで、享年43歳でした。
長年にわたり『中央公論』の編集を率い、多くの作家や評論家を世に送り出してきた名編集者の生涯は、ここで幕を閉じたのです。
葬儀と関係者による追悼
滝田樗陰の死後、その訃報は中央公論社の関係者や親交のあった作家たちに伝えられました。
葬儀は1925(大正14)年10月30日、本郷赤門前の喜福寺で執り行われています。
当日は多くの関係者が参列し、滝田樗陰の死を悼みました。
杉森久英の著作によると、葬儀では編集者や作家だけでなく、滝田樗陰と交流のあったさまざまな人物が集まっています。
滝田樗陰は厳しい編集者として知られる一方で、才能ある作家を発掘し、その活動を支えた人物でもありました。
その死は、中央公論社だけでなく、当時の文学界や出版界にとっても大きな出来事となりました。
滝田樗陰の死後、中央公論社はどうなった?
滝田樗陰の死後、編集体制の見直しが始まる
滝田樗陰の死後、中央公論社では『中央公論』の編集体制をどのように引き継ぐかが重要な問題となりました。
それまで滝田樗陰は、作品の選定や雑誌の編集方針について強い影響力を持っていました。
しかし、その中心人物が亡くなったことで、中央公論社は新しい編集体制を整える必要に迫られたのです。
杉森久英氏の著作によると、滝田樗陰の死後、社内では編集方針の見直しが進められました。
これまで滝田樗陰の判断に大きく依存していた編集体制から、複数の編集者が協議しながら雑誌を制作する体制への転換が模索されました。
高野敬録らが編集を引き継ぐ
滝田樗陰の死後、『中央公論』の編集には高野敬録らが中心となって関わるようになりました。
当時の中央公論社には、滝田樗陰のもとで経験を積んだ編集者たちが在籍していました。
しかし、編集方針については必ずしも全員の意見が一致していたわけではありません。
杉森久英の著作によると、滝田樗陰の死後には、従来の編集方針を受け継ごうとする考え方と、新しい時代に対応した編集を進めようとする考え方との間で対立が生じました。
また、中央公論社の社長・麻田駒之助も、雑誌の経営や編集体制について改革を進めようとしていました。
こうして『中央公論』は、滝田樗陰という強い指導者を失った後、新しい編集方針を模索する時期に入ったのです。
編集方針をめぐる対立と編集者の退社
滝田樗陰の死後、中央公論社では編集方針をめぐる対立が表面化しました。
それまで滝田樗陰は、優れた作家や評論家を自ら見出し、編集者としての判断によって作品を掲載することを重視していました。
しかし、時代の変化に伴い、雑誌には新しい読者層を獲得することや、社会的な問題を積極的に取り上げることも求められるようになりました。
杉森久英の著作によると、中央公論社ではこうした編集方針をめぐる対立が続き、最終的には高野敬録らが退社することになりました。
滝田樗陰が築いた編集体制は、その死後、次第に変化していったのです。
嶋中雄作は1928(昭和3)年に中央公論社の社長に就任
滝田樗陰の死後、中央公論社の発展に大きな役割を果たした人物の一人が嶋中雄作(1887~1949年)です。
嶋中雄作は1912(大正元)年に中央公論社へ入社し、滝田樗陰のもとで編集者として経験を積みました。
1916(大正5)年には『婦人公論』の創刊に携わり、初代編集長に就任しています。
その後、滝田樗陰が1925(大正14)年に亡くなると、嶋中雄作は『中央公論』の編集にも深く関わるようになりました。
そして1928(昭和3)年8月1日、中央公論社の社長に就任します。
社長となった嶋中雄作は、雑誌の発行だけでなく、書籍の出版事業にも力を入れました。
1929(昭和4)年には出版部を設け、エーリヒ・マリア・レマルクの小説『西部戦線異状なし』を刊行。同書はベストセラーとなり、中央公論社の出版事業の発展につながりました。
こうして中央公論社は、滝田樗陰が築いた総合雑誌『中央公論』の伝統を引き継ぎながら、雑誌と書籍の両方を手がける総合出版社へと発展していきました。
滝田樗陰の死は、一人の名編集者の生涯の終わりであると同時に、中央公論社が新しい時代へ移行する転機にもなったのです。
→ 嶋中雄作とは?
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滝田樗陰とは?
滝田樗陰は、明治時代末期から大正時代にかけて『中央公論』の編集を率いた出版人・編集者です。
多くの作家や評論家の才能を見出し、『中央公論』を日本有数の総合雑誌へと発展させた経歴や、その人物像を紹介します。
→ 滝田樗陰とは?
嶋中雄作とは?
嶋中雄作は、滝田樗陰のもとで編集者として経験を積み、1916(大正5)年に『婦人公論』の初代編集長となった人物です。
滝田樗陰の死後、1928(昭和3)年に中央公論社の社長に就任し、雑誌だけでなく書籍の出版事業も発展させました。
滝田樗陰との師弟関係や、中央公論社での経歴を紹介します。
→ 嶋中雄作とは?
参考文献
今回の記事は以下の書籍を参考としています。
