宇野千代と父・宇野俊次
宇野千代とは
NHKの2026年後期朝ドラ「ブラッサム」に登場するヒロイン・葉野珠(はのたま)(石橋静河)のモデルとなる、宇野千代(うのちよ)(1897~1996年)さんとは、日本の小説家・随筆家です。他にも編集者・実業家・着物デザイナーとしても知られています。
1921(大正10)年に「脂粉の顔」が「時事新報」の懸賞短編小説の一等に選ばれて小説家としてデビュー。それ以来、「色ざんげ(1935年)」・「おはん(1957年)」などの代表作を発表。
編集者・実業家としては1936(昭和11)年にスタイル社を創業し、日本初のファッション専門誌「スタイル」を創刊。また1949(昭和24)年には「宇野千代きもの研究所」を設立。1974(昭和49)年、勲三等瑞宝章を受賞。
宇野千代は父・宇野俊次 母・土井トモの長女として誕生
宇野千代さんは1897(明治30)年11月28日に山口県玖珂郡横山村(現在の岩国市)で、父・宇野俊次(うのとしつぐ)と母・土井トモの長女として誕生。
いま(昭和五十七年)から八十四年前に、私は周防ノ国岩国大字川西の八百七十七番地の家に生まれた。山口県岩国と言わず、周防ノ国岩国と言う方が、私の昔風の感覚に似合っているからである。
宇野 千代. 生きて行く私 (角川文庫) (Function). Kindle Edition. No.62
今回の記事は宇野千代さんの父である宇野俊次に焦点を当てた記事となります。
宇野千代の父・宇野俊次はどんな人物だったのか
宇野俊次の生家は父祖代々の造り酒屋だった
宇野千代さんの父・宇野俊次の生家は、高森というところで父祖代々、造り酒屋(酒造業)を営み、地元では分限者(金持ち)として知られていました。
宇野千代さんが84才のときに書いた「生きていく私」では幼少期のころ、川西にある生家と高森にある父の生家とをたびたび往復していたことが述べられており、造り酒屋のことも昨日のことのように描写されています。
店先には夥しい数の酒樽が並べられており、店先に酒を買いに来た人たちに対してはいかにも「売ってやるぞよ」という主客転倒の様子がありありと述べられています。
ただし造り酒屋(酒造業)の主人は、宇野俊次ではなく、宇野千代さんにとっては伯父にあたる男性でした。宇野俊次はその造り酒屋の「分家」という立場でした。
博打の常習者でかつ花街の遊び人
また「生きていく私」では宇野千代さんは、父・宇野俊次の思い出について博打の常習者であったと挙げています。
或るときのことである。父は家を出て行ってから二日も帰って来ないことがあった。警察から知らせがあって、父はそこに留められているのだと言う。私は母に連れられて、その父のために弁当を持って行った。警察は臥龍橋の向こうの袂にあった。川西から行くと、行く手にその白い建物が、いかめしく見えていた。 あとで聞くと父は、どこかで博奕をしていて、挙げられたのだと言う。
宇野 千代. 生きて行く私 (角川文庫) (Function). Kindle Edition. No. 157
この後の「生きていく私」の文章では、父・宇野俊次は若いときから自分のやりたいことは何でもしたと述べ、そのことは宇野千代さん自身の人生にも当てはまると説明しています。
さらに宇野俊次は「大名小路」という花街ではひょうきんな遊び人としても有名でした。
そのため高森にある造り酒屋の本家から財産を相当な財産を受け取っていたにもかかわらず、いつの間にか金を使い果たし宇野千代さんの家は貧しくなってしまったそうです。
宇野俊次と宇野千代さんの1回目の結婚
父・宇野俊次の言いつけで1回目の結婚をした宇野千代
宇野千代さんは生涯に4回の結婚と離婚を繰り返したことで有名です。その1回目の結婚と離婚には、父・宇野俊次が大きく関わっています。
宇野千代さんの1回目の結婚は1911(明治44)年、14才のときのことです。ある日、宇野千代さんの母方の伯母にあたる女性から「うちの家に遊びにおいで」と言われ、言われるままに遊びに行くことに。
そして伯母の家から川西の家に帰ろうとする頃には、すっかり夜も更けてしまい、従兄の藤村亮一に送ってもらうことにします。
すると家に帰るなり俊次は「おどれ、こんとに暗ろうなるまで、よう男と歩いとったな」といって、宇野千代さんの頬を打ちます。
そのうち俊次は宇野千代さんにまるで刑罰でも言い渡すように藤村亮一のもとに嫁ぐように言い渡しました。
あるとき、鉄砲小路の家から人が来て、私を雄一の嫁に貰いたいと言って来たと言う。思いもかけぬことであるが父は、一も二もなくこの申し出を承諾したと言う。そして私を呼んで、「われあ、早やじきに、鉄砲小路の家に嫁入りするのじゃぞ。ええか、われあ、あんとき、あんとに暗うなってから雄一と一緒に歩いて来たのじゃけにな。よもや忘れてはおるまいがの」と私の顔を真っ直ぐに睨みつけて言ったとき、私は何の抵抗もなく、ただ「はい」と答えただけであった。
宇野 千代. 生きて行く私 (角川文庫) (Function). Kindle Edition. No. 157
1回目の結婚は10日ほどで破綻し離婚
もちろん宇野俊次と宇野千代さんの伯母との間で取り決めがあって、宇野千代さんの1回目の結婚が決まったわけですが、以前から俊次は寝込むことがあり、宇野千代さんの嫁入りをできるだけ早く決めたかったようです。
しかし宇野千代さんは鉄砲小路にある藤村亮一の家に嫁いだものの、わずか10日ほどで離婚。今でいうホームシックにかかって川西の実家に戻り、そのまま居ついてしまったのです。
この頃には宇野俊次は病気のためすっかり目が窪み、骸骨のように痩せこけ、俊次は宇野千代さんに鉄砲小路に戻れと言うこともありませんでした。
このあと宇野俊次の病状は良くならず、1913(大正2)年に宇野千代さんが16才のときに亡くなります。
宇野千代 父親 関連記事と参考文献
宇野千代 父親 関連記事
宇野千代さんには実母と継母の2人の母親がいます。宇野俊次は最初の妻・トモが亡くなったのち、後妻としてリュウと再婚しました。
宇野千代 父親 参考文献
今回の記事は以下の書籍を参考としています。
