小説『人生劇場』で知られる作家・尾崎士郎(1898~1964年)は、小説家・宇野千代と離婚した後、古賀清子と再婚し、人気作家として成功しました。
しかし、戦時中には従軍記者として活動し、戦後の1948(昭和23)年には公職追放の対象となります。
その後も歴史小説や相撲に関する作品を執筆しましたが、1961(昭和36)年に直腸がんを患い、1964(昭和39)年2月19日に亡くなりました。
この記事では、尾崎士郎が宇野千代と離婚した後の人生を、『人生劇場』の成功、戦時中の活動、公職追放、晩年の闘病生活から死因・最期まで解説します。
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結論|尾崎士郎のその後と死因は?
尾崎士郎は1930(昭和5)年に宇野千代と離婚し、古賀清子と再婚しました。
1933(昭和8)年に連載を開始した『人生劇場』が大ヒットし、人気作家となります。
その後の人生は、次のように展開しました。
| 年 | 主な出来事 |
|---|---|
| 1938(昭和13)年 | 従軍記者として中国へ渡り、戦争に関する文章を執筆 |
| 1948(昭和23)年 | 戦時中の活動を理由に公職追放。5月に長男・俵士が誕生 |
| 1951(昭和26)年 | 公職追放が解除され、歴史小説などの執筆を継続 |
| 1961(昭和36)年 | 直腸がんを患い手術 |
| 1963(昭和38)年 | がんが再発し、療養生活を送る |
| 1964年(昭和39)2月18日 | 文化功労者として顕彰される |
| 1964年(昭和39)2月19日 | 直腸がんにより66歳で死去 |
晩年は妻・古賀清子や娘・尾崎一枝ら家族に見守られながら過ごしました。
尾崎一枝は著書『父 尾崎士郎』において、父親が亡くなる前日の1964年2月18日から最期までの様子を詳しく記録しています。
→ 尾崎士郎と古賀清子の関係とは?
→ 尾崎士郎の娘・尾崎一枝とは?
尾崎士郎は宇野千代との離婚後に再婚し『人生劇場』で成功
宇野千代と離婚し古賀清子と再婚
小説家・尾崎士郎(1898~1964年)は、1926(大正15)年に小説家・宇野千代と結婚。
しかし、1928(昭和3)年正月には宇野千代と別居し、古賀清子との生活を始めます。
その後、1930(昭和5)年8月に宇野千代と正式に離婚し、古賀清子と再婚。
古賀清子との間には、1933(昭和8)年に長女・尾崎一枝、1948(昭和23)年5月に長男・尾崎俵士が生まれています。
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『人生劇場』が大ヒットし人気作家になる
1933(昭和8)年、尾崎士郎は代表作となる長編小説『人生劇場』の新聞連載を開始しました。
1935(昭和10)年には単行本が刊行され、作品は大きな人気を集めます。
『人生劇場』は映画や舞台にも取り上げられ、尾崎士郎は昭和を代表する人気作家の1人となりました。
その後も『人生劇場』の続編を執筆し、戦前から戦後にかけて長く書き続けています。
尾崎士郎は戦争中に従軍記者として活動
1938年に従軍記者として中国へ渡る
1937(昭和12)年に日中戦争が始まると、日本の新聞社や出版社は国民の戦意を高揚させるため、こぞって作家・記者を中国大陸へ派遣。戦地の様子を報道するようになりました。
尾崎士郎も1938(昭和13)年、従軍記者として中国へ渡り、戦地での経験を執筆活動に生かしています。
当時の尾崎士郎は、すでに『人生劇場』の成功によって広く知られる作家でした。
戦争が長期化するなかで、尾崎士郎は戦争に関する文章や作品も発表するようになります。
戦時中は戦争に協力する文章を執筆
太平洋戦争が始まった1941(昭和16)年以降、尾崎士郎は戦争に関係する文章を数多く発表しました。
戦時下では作家や文化人にも戦争協力が求められ、尾崎士郎もそのような活動に関わっていました。
1943(昭和18)年には『人生劇場』の新たな作品を発表するなど、小説家としての執筆活動も続けています。
しかし、戦争中の活動は、敗戦後の尾崎士郎の立場に大きな影響を与えることになります。
尾崎士郎は戦後に公職追放された
1948年に公職追放の対象となる
1945(昭和20)年8月、日本は太平洋戦争に敗北。
戦後、連合国軍総司令部(GHQ)の占領政策によって、戦争に協力したと判断された政治家・軍人・文化人などが公職追放の対象となります。
尾崎士郎も戦時中の活動を理由として、1948(昭和23)年に公職追放されました。
ただし、公職追放は小説の執筆や出版そのものを全面的に禁止する制度ではありません。
実際に尾崎士郎は、追放期間中も作品を発表しています。
1951年に公職追放が解除される
尾崎士郎の公職追放は、1951(昭和26)年5月に解除されました。
鈴木氏の『人生劇場のふるさと』によると、追放解除が決まった際には、親友の尾崎一雄から祝電が届き、経済雑誌の関係者も尾崎士郎のもとを訪れています。
尾崎士郎は、この時期に再び執筆への意欲を強めていきました。
その後、歴史小説や相撲を題材にした作品などを発表し、作家としての活動を続けます。
尾崎士郎は公職追放解除後も小説家として活動
『石田三成』などの歴史小説を執筆
公職追放が解除された尾崎士郎は、歴史上の人物や事件を題材にした作品にも力を入れるようになりました。
1952(昭和27)年には、歴史小説『石田三成』を発表しています。
その後も『人生劇場』の続編を執筆しながら、歴史小説や随筆など幅広い分野で活動しました。
戦前に人気を集めた『人生劇場』だけでなく、新たな題材に取り組み続けたことが、戦後の尾崎士郎の特徴です。
相撲を愛し横綱審議委員も務める
尾崎士郎は大の相撲好きとしても知られています。
1954(昭和29)年には『伊勢新九郎』を発表するなど、歴史を題材にした作品を執筆する一方、相撲に関する文章も書き続けました。
また、日本相撲協会の横綱審議委員も務め、相撲界にも関わっています。
1960(昭和35)年には、江戸時代の力士を題材とする長編小説『雷電』を発表しました。
このように尾崎士郎は、戦後も小説家・随筆家として活動を続けていたのです。
尾崎士郎の死因は直腸がん|1964年に死去
1961年に直腸がんの手術を受ける
尾崎士郎は1961(昭和36)年、直腸がんを患い、手術を受けました。
手術後は執筆活動を再開し、体調を見ながら仕事を続けています。
しかし、病気が完全に治ったわけではありませんでした。
『人生劇場のふるさと』によると、1963(昭和38)年6月には身体の不調から病院で検査を受け、がんの再発が疑われました。
その後、手術によってがんの再発が確認されています。
尾崎士郎は療養生活を送りながらも、執筆への意欲を失わず、亡くなるまで文章を書き続けました。
がんが再発し1964年2月19日に死去
尾崎士郎は1964(昭和39)年2月19日、東京都大田区の自宅で亡くなりました。
死因は直腸がんです。
1898(明治31)年生まれの尾崎士郎は、満66歳で生涯を終えました。
晩年はがんの再発によって衰弱していましたが、家族や親しい人々に見守られながら療養生活を送っていました。
葬儀は同年2月21日に青山斎場で行われ、水野成夫が葬儀委員長を務めました。
また、川端康成らが弔辞を読み、尾崎士郎の死を悼んでいます。
娘・尾崎一枝が記録した尾崎士郎の最期
尾崎士郎の長女・尾崎一枝は、著書『父 尾崎士郎』のなかで、父親が亡くなる直前の様子を詳しく記録しています。
1964(昭和39)年2月18日、東京では朝から雪が降り始めました。
この日、長男・尾崎俵士は早稲田大学高等学院の入学試験に出かけていましたが、父親の容体はすでに危篤に近い状態でした。
尾崎士郎は意識がはっきりしている時間と、そうでない時間を繰り返しながら、妻・清子や娘・一枝らに言葉をかけていました。
一枝の回想では、尾崎士郎は昔の歌を思い出して口ずさんだり、娘の手を握ったりするなど、最後まで家族との交流を続けていたことが描かれています。
そして翌2月19日の朝、尾崎士郎は息を引き取りました。
一枝は、父親が亡くなった日の雪景色と、最期に交わした言葉や父親の表情を、自身の作品である『父 尾崎士郎』において克明に記しています。
→ 尾崎士郎の娘・尾崎一枝とは?
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尾崎士郎の墓はどこ?現在の記念館について
墓は愛知県西尾市吉良町横須賀の福泉寺の菩提寺にある
尾崎士郎の墓は、愛知県西尾市吉良町横須賀の福泉寺の菩提寺・福泉寺にあります。
1964(昭和39)年の葬儀後、尾崎士郎の遺骨はこの寺に納められました。
その後、1967(昭和42)年には、尾崎士郎の代表作『人生劇場』にちなんだ文学碑も建立されています。
東京都大田区に尾崎士郎記念館がある
尾崎士郎が晩年を過ごした東京都大田区山王には、現在「大田区立尾崎士郎記念館」があります。
尾崎士郎は戦後、この地域に住み、作家としての活動を続けました。
記念館では、尾崎士郎が暮らした住居やゆかりの資料などを通じて、その生涯と文学活動を知ることができます。
また、尾崎士郎の故郷である愛知県西尾市にも、文学碑などゆかりの場所が残されています。
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尾崎士郎 妻
尾崎士郎は生涯の間に、2回の結婚をしています。
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尾崎士郎 宇野千代
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尾崎士郎 古賀清子
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尾崎士郎 子供
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尾崎一枝
尾崎一枝(1933年生まれ)は、尾崎士郎と古賀清子の長女です。
父・尾崎士郎について書いた『父 尾崎士郎』などの著書があり、俳人・中村汀女の息子である中村湊一郎と結婚しました。
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尾崎俵士
尾崎俵士(1948年生まれ)は、尾崎士郎と古賀清子の長男です。
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宇野千代とは
宇野千代(1897~1996年)は、山口県岩国出身の小説家・随筆家です。
生涯で4回の結婚を経験し、『色ざんげ』『おはん』『生きて行く私』などの作品を残しました。
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宇野千代 夫
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宇野千代 離婚
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宇野千代の生涯をモデルとした朝ドラ「ブラッサム」の作品紹介です。
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参考文献
今回の記事は以下の書籍を参考としています。
